「2005年、セカイ系、イッポ手前」

2005年の映画「NANA」を観た。
「PとJK」の次の、「おそらく共感できないであろう映画」であろうと思って観た2本目である。
予想に反して、良くできた作品だと思ったし(失礼!)、楽しんで観ることができた。心を打たれ共鳴したか?と聞かれると、そうではないのだけれど、それは好みの問題で作品の良し悪しではないから、仕方ない。

だけれども、観た後で自分の中に、何かよくわからないシコリみたいなものが残ったので、この文書を書くことによって、それが何であるのか自分で整理してみたい。

おそらく、このシコリの原因は、登場人物達の「世界」の狭さにあると思われる。


この映画は、ある吹雪の夜に、たまたま電車で隣り合い、同じ年齢、同じ名前を持った、二人の女性の成長譚である。


主人公は、二人の「ナナ」である。一人は勝ち気でサバサバした性格で、ロックバンドのボーカルをやっている中島美嘉演じるナナ。
もう一人は彼氏を追いかけて上京してきたばかりの、いかにも女のコって感じの人懐っこい、でも人によってはウザったがられてしまう宮崎あおい演じるナナ(もう一人のナナに、犬みたいにいつもくっついいているので、ハチと呼ばれている)。この二人は同じ二十歳である。

まず、「世界」の狭さを感じるのは、登場人物たちの年齢。

普通、子供が大人に成長しようとする物語は、乗り越えるべき困難な壁として、「社会」や「大人」が対峙してくる。そして、それを同じようにすでに通過した、鳥瞰的な立場で優しく、かつ厳しく見守る成熟した「大人」が側にいるはずである。(そして、その乗り越える為に足掻いているのを、次は私達も同じように頑張ろう、と感じる下の世代がいる場合が多い。)つまり、年齢の幅が広く、この世代間の交流による、社会との関わりによって、人は成長するものである(と思う)。
この「年齢の幅」、「世代間の交流」が無いのである。

主人公の二人は前述の通り、二十歳。この二人の周辺のバンドマン達も、見た感じ同じ世代である。(弁護士ドラマーが唯一、少し俯瞰的に物事を見てる感じはある。)
宮崎あおいナナの方は、勤務先の「嫌な上司と女先輩」や、田舎に帰ると「優しいお母さん」と「あまりさえないお父さん(言及だけで、登場はしない)」はいるが、彼らは単なるステレオタイプとして出てくるので印象は薄く、乗り越えるべき壁としては機能していない。
そして、特筆すべきは、もう一人の中島美嘉ナナの方である。彼女はもともと父がおらず、幼い頃は母と二人だったが、その母も彼女を捨て、蒸発し、祖母によって育てられる。その後、その祖母も彼女がバンドを始める直前に亡くなった。(彼女の体型はとても華奢で、服装もメイクもダークな感じ。「幸せイッパイ!」と言うふうにはとても見えない。)
そして、もう一人の重要人物である、彼女の恋人(一緒にバンドを組んでいたが、東京のメジャーのバンドに引き抜かれ、今は人気ギターリスト)である松田龍平演ずるレンも事情は忘れたが、両親がおらず、ずっと一人で生きてきた。この二人は上京するまで、街の外れの貸倉庫(!)(内装、めちゃくちゃオシャレ)で同棲していた。
この二人には、サポートしてくれる親も先輩も、登場しない。あるのは親たちに見捨てられたという、不条理な「現実」だけである。
その「現実」に(幸せイッパイ!的な)宮崎あおいナナが現れ、この厳しく硬い現実を、お互いにやわらげ合い、なんとか前に進んでいくというお話しである。
前には進むのだけれども、この「世代間の交流」が無いので、どうしても閉塞感を感じてしまうのである。同世代の価値観だけで生きざるを得ず、「価値観の転換」や、「主体の変革」みたいなものは(あまり)起きてないように思われる。



あと、もう一つ、どうしても気になってしまったのがあった。
それは主人公二人のそれぞれのモノローグ(心の内の独白、ひとり語り)である。
宮崎あおいナナの場合は、中島美嘉ナナを想い、気遣うモノローグ。
中島美嘉ナナの場合は、恋人との出合いと別れの回想場面のモノローグ。
これがどうしても私の身体に合わなかったのだ。
あまり良い言い方ではないが、とても気持ちが悪いのである。悪寒がしたほどである。
これはその事によって、作品の質が下がるとか、そういう批判をしているのではなく、考えてみると、単に私がこういう表現を嫌う個人的な理由があるのである。

その「理由」というのが、新海誠の2016年のアニメ映画「君の名は。」である。
彼の映画のほとんどは主人公(ぼく)と、ヒロイン(きみ)を中心とした、小さな関係性の「セカイ」で構成されている映画である。故に「セカイ系」と呼ばれており、感情表現がモノローグによって主に成り立っている。(私の友人に感傷的な感情描写のモノローグを使って、新海誠の映画のマネをする人がいる)
感情表現がモノローグだから、相手にその感情が伝わるはずがないのに、何故かお互いに心が通じ合うという、「他者」のいないセカイなのである。
私はこの「セカイ」に世界の閉塞感の極限を見ている。あの映画を観ていると、セカイの狭さに閉じ込められて、もう何処にも行けないような、誰ももう居ないような、そんな気持ちになるのである。

このセカイ系的モノローグをトラウマとして、悪寒がしたのである。

セカイ系」の特徴としては、「言うことを聞いてくれない大人」としての「社会」を、都合よく無視して話を進める、というのがある。「君の名は。」で言えば、三葉の父親を説得して、住民の避難を止めさせないシーン。その説得のシーンがヤマ場となるはずだが、そのシーンはまるまるカットされ、どうやって大人たちを説得したのかわからない。
(「主権者のいない国」白井聡著 P97参照)

困難な「社会」も「大人」も自分達の都合の良いように無視して良いのなら、そこに乗り越えようとする足掻きはないので、もちろん「成長」しようとする意思も無い。

今回の2005年の映画、「NANA」には、向き合おうとする(あくまで自分達の)困難な「現実」や、なんとか前に進んで成長し、「大人」になろうとする「意思」は確かにあったと思う。のであるが、、、


物語は、関係が崩れていた中島美嘉ナナとその恋人の関係が、宮崎あおいナナのおかげで修復され、その事によって、より二人の友情が深まる。ということで終わるという、明らかなハッピーエンドなのであるが、私はそこでどうにも煮えきらない気持ちになるのである。
それは先程まで述べてきた、「世代間の交流」の無さや、モノローグによる「セカイ系」のイメージへの連想によるものと思われる。(そう言えば、昔の映画にモノローグってあんまりない気がする。もちろん、私の映画鑑賞の量では、とうてい断言出来ないけど)


先程参照した、白井聡の「主権者のいない国」によると、「セカイ系」が、「社会」や「大人」を無視するのには理由がある。
「してみれば、『セカイ系』とは、社会の存在の否認の表現であるが、それと同時に、社会からの疎外の痛切な表現であるとも言えよう。社会というものが、人々にとって、どうしようもなく動かしがたく、不快感のみを与えるひたすらに疎ましいものとして認識されたとき、それがあたかも存在しないかのごとくに振る舞う、その存在を否認するという心性がそこにあらわれている。もちろん、そのような振る舞いは逃避にほかならず、オタク的欲望、すなわち万能感を手放したくないという幼児的願望のなせる業である。」(p97)


中島美嘉ナナの現実の辛さや、風貌は、「社会からの疎外の痛切」さを表してはいたが、それを、「否認」する事なく、彼女はもがきながら前に進んで行く強さをもっていた。この事を考えると、「NANA」は「セカイ系」ではなく、それへと続く、前過程であり、最後の足掻きであったように思う。いわば、セカイ系の一歩手前だったのではないか。
セカイ系」は2000年頃に出てきたものらしい。このことからも、だいたいあてはまる。

2016年の「君の名は。」で、その現実を直視し、前に進んで行こうとする強さは、木っ端微塵に砕け散った。


2021.6.6