「駄作の中心で、whyをさけぶ」

2004年の映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を観た。
とにかく。
面白くない。面白くないのだ。
一体、どうして、こんなもの作るんだ。一流の俳優陣を集め、それなりにお金も時間もかけて、こんなものを一所懸命に作りあげるなんて、どうかしてる。一体どうして?

と、腸、煮えくり返る思いであるが(しょっちゅう、腸煮えくり返る奴である)、その疑問への回答はいたってシンプルであろう。
それは、「売れるから。」である。(実際に社会現象と言われるほどに売れた)
では、どういうものが売れるのか、と言うと、多くの人々の「欲望に応えられるもの」がそうであろう。
では、その「欲望」とはどんなものであったか。悪口ばかり言ってもしょうがないので、この映画に表れているであろう、「欲望」を考えてみたい。(そして、その上で悪口を言いたい。)


この物語は現在から過去を回想し、現在と過去の2つの時間軸を行き来する構造になっている。
現在は、もう大人になっている主人公の朔太郎(さくたろう、愛称はサク、大沢たかおが演じている)が、あるきっかけで、高校生時代の恋人との思い出のカセットテープ(肉声による交換日記のようなもの)の存在を思い出し、それを聴きながら思い出の場所を巡る時間軸と、その思い出される過去の場面の時間軸(恋人との出合い、楽しい日々、そして死別)、これらの2つの時間軸での構成である。
現在の朔太郎は、リツコ(柴咲コウ)ともうすぐ結婚する予定であるが、そのカセットテープがきっかけで、忘れていたはずの高校生時代の恋人を、実は自分が心の底では忘れていないということに気がつく。そして、その過去の出来事と向き合うことによって、前に進んで行くという話しである。


私がここで指摘したいのは、高校生時代の恋人である広瀬亜紀(長澤まさみ)が何故、死ななくてはならないかということである。もっと過激に言えば、誰が彼女を殺したか、である。

もちろん、設定上は彼女の死因は白血病によるものである。誰も彼女を殺してはいない。しかし、それは見せかけに過ぎない。
彼女が死ななければならない本当の理由は、高校生時代の恋の思い出を「美しい物語」で終わらせるためにある。
どういうことか。

この映画はあまりにも「美しい」。この映画をこの映画たらしめているのは、過去の完璧なまでの「美しさ」である。我々はこの「美しい思い出」を大人になった主人公が、過去を振り返るという目線に重ねながら鑑賞する。

そして、この「過去の美しさ」をもたらしているのは、恋人の亜紀である。彼女の特徴は「勉強ができるし、スポーツ万能だし、人気があって」と言及されており、他の女子とは少し雰囲気が違い、凛としている感じで描写されている。
朔太郎(高校時代は森山未來が演じている)とのやり取りを見ても、ほぼ素直で明るく、積極的であり、まるで非の打ち所がない。それを長澤まさみが演じるのだから、完璧である。
そう、完璧なのである。しかし、この完璧なまでの美しさは、あらゆるものがそうであるように、時間の経過による劣化を免れることはできないはずだ。
ただ一つの方法を除いては。
それは時間の強制停止である、「死」である。
彼女が白血病になり、これから死に向かうという状況になれば、恋愛における互いの欲望の不一致による軋轢、そしてその修復(それらはどうしても見苦しくなることが多いだろう。けっして美しくはない)の過程は必要はなくなってくる。我々はひたすら互いのことを思いやり、死にゆく彼女と、どうすることもできない主人公に同情すればよいのである。

そして、さらに言えば、亜紀はそもそも朔太郎の主観的な理想でしかなく、自律した登場人物として在るのではない。上述したように、彼女はあくまで、「理想的な女性」としてあるのみであり、これは物語を進めるうえでの「舞台装置」でしかない。
つまり、彼女は本当は生きてる人間としては扱われていないのである。もともと死んでいる登場人物を勝手に殺しても問題ない。(なんの前触れもなく白血病になったのはその為である。)


では、先程の問いに戻ろう。誰が殺したか。
これには三つの層がある。


まず、第一の層は物語の層である。
ここではは恋愛の美しさを保とうとして、主観的理想のみでしか彼女を見られなかった、主人公、朔太郎が当てはまる。我々が観ていたのは彼の目(記憶)を通しての彼女である。
彼女を他者(自分の理解も共感も絶した存在)として見ようとはしていなかった。それは彼女の中にも固有の魂があるはずだ、という前提が無いことである。
魂の否定をするということは、生きていない(殺している)と言っているのと同じ事である。
そして、彼女が白血病で死ぬ事で、朔太郎の「美しい思い出」は完成する。
現実での若い時代の恋愛の多くは、自分の主観の範囲内でしか相手を捉えておらず、それはたいてい、ぼろぼろの破局をもたらす。その事で言うなら、朔太郎も特別ではないが、彼女が死ぬ事によって、そのぼろぼろになるような破局が回避でき、「美しい」ままで終われるのである。
「美しさ」を保つという面で、朔太郎が亜紀を殺したと言える。

第二の層。
第一の層でも述べたように、亜紀は「朔太郎の理想」として設定されていた。では、その設定をしたのが次の殺人者である。それはもちろん製作者である。
製作者はおそらく、「高校時代に恋人を亡くした人物が、それを大人になって回想する」という大枠をはじめから持っていたのではないか。その大枠のパーツとして、亜紀は組み込まれた。
はじめから、物語の部品としてあったのなら、それを取り付けるのも外す(殺す)のも製作者の自由である。


第三の層。
これは少しややこしい。
第二の層の製作者が、第一の層で述べた「美しい物語」を、現代の大衆はおそらく「欲望」しているだろうと見立てた。つまり、製作者はこういう物語がウケると見込んで、それにそって作った。そして、実際、その見立ては大当たりであった。
そう、第三の層での殺人者は、我々「大衆」である。
これは私の狭い経験においての、今の所での確信であるが(こんな確信、早く撤回したい)、我々「大衆」は、本当は他者の話しなんか全然聞きたくないし、自分の思い通りの反応をしないものに対しては、存在を無視したがっている。あらゆるものを自分の主観の範囲内に回収したいし、それ以外の事柄は無意味なものとして唾棄したい、という「欲望」があるのではないか。
この確信が、仮に正しいとするならば、今回のこの映画もこの大衆の「欲望」にそって作られている。
恋人も自分の主観の範囲内にいるときは美しくあるが、その幻想は時間と共に消滅する。その幻想が消滅するくらいなら、(象徴的に)殺してしまえ。そして、その主観の範囲内にいた時の美しい思い出を、大人になって思い出そうじゃあないか、と。
恐ろしい事である。しかし、確かに魅惑的である。だからこその社会現象なのだろう。


最後に悪口を言おうと思っていたが、だんだん、ゲンナリしてきた。こんな見掛け倒しの映画が流行っていたなんて、どうかしてるよ。

そう言えば、平井堅が歌うこの映画の主題歌の歌詞で、「瞳を閉じて、君を描くよ、それしか出来ない」というのは、死んだ亜紀を思うのではなく、高校時代の朔太郎の「自分の主観の範囲内でしか君を描けない」ということの表れだったのではないだろうか。
なんだかんだと、やっぱり悪口言ってるじゃないか。
ともかく。


17年前の映画ではあるが、人々の欲望は今もあまり変わっていないと思われる。


2021.6.13