「ありがとう、全ての『おいしい給食』」

2020年の映画「おいしい給食 Final Battle」を観た。テレビドラマ版も大好きだった。この私は、馬鹿げているはずのこの物語に不覚にも、何度も涙を流した。

自称、給食を食べるために学校に来ていると言っても過言ではない(本当に言い過ぎではない)、市原隼人演ずる中学校教師、甘利田(あまりだ)先生。彼の給食に対する愛は並大抵のものではない。彼にとっての人生最大の至福、それは給食だ。彼が給食を食べる時、その姿は歓びに満ち満ちている。まるでダンスだ。その歓喜の姿の内で紡がれる言葉の羅列を音楽とするならば、観ている我々はその音楽の軽快、かつ甘美なリズムに乗って彼とのステップに踊り狂い、彼の感じているであろう大いなる歓びを追体験するのである。それ程までに彼は給食を愛している(市原隼人の素晴らしく大袈裟な演技がそれを可能にする)。

が、しかし、そんな幸福な時間は彼が担当しているクラスの男子生徒によって、いとも簡単に崩されていく。そう、神野ゴウである。
彼も甘利田先生に負けず劣らず給食をこよなく愛している。甘利田先生にとっては目の上のたんこぶ、いまいましい宿敵だ。
彼が示す給食への愛は、「アレンジ」という手法で表現される。
彼は独自の天才的着眼により、これまではそれぞれが別々に食すべきものであり、関連性の薄かったはずの食品同士を組み合わせる。そして、そこに新たな調和と世界観を打ち立てるのだ。(第一話では、鯨の竜田揚げをコッペパンの中に挟み、前日の給食に出されたはずのタルタルソースをその上に豪快にかけ、口を大きく開けて、タルタルソースを口のまわりに付けながら、旨そうに頬張る。)
言うなれば、夜空に広がる無数の星と星との間に線を引き入れ、巨大なハクチョウ座を出現せしめるが如く、この巧みなアレンジによって新たな神話と世界が創造される。この世界創造を目撃してしまった後では、ハクチョウ座以外では、もはやこの夜空の有り様を表す事は可なわなくなるように、この食べ方以外には有り得ない程の衝撃なのである(少なくとも甘利田先生にとっては)。
甘利田先生は打ちひしがれる。教師としては本来、そのような、あるべき秩序を乱しかねない変則的な食べ方を戒めなければならない。だが、あまりにも、そう、あまりにも、「うまそげ(美味しそう)」なのである。
「給食をおいしく食べる」という事が、何よりも「給食道」を貫く道であるならば、神野ゴウはその道理をまさに体現している。その彼を、甘利田先生は同じ「給食道」を志す者として、否定する事はできない。
彼は教師と生徒という立場の違いがあるにも関わらず、神野ゴウを同じ道を極めんとする「同志」として扱う。普段は教師の威厳を保つためにわりと威張っており、特に神野に対しては大人気ない敵意がむき出しにされるが、こと給食という戦場に限って言えば、相手の優れた点をしっかり認め、自分の軽率さと愚かさをしっかり直視する。そして毎回、痛烈に悔しがりながらも、素直に負けを認めるのである。その潔さは、道を極めんとする者の姿勢の現れであり、観ている我々はその精神の有り様に心打たれる。(時々、教師権力を使って事前に神野の給食アレンジの妨害を企てたりもする。が、すべて裏目に出る。その事は棚に上げておこう)

しかし、私はここでは涙しない。
この作品の奥深さはここからである。
甘利田先生と神野ゴウは「給食」においては、「対等」であるが、神野はまだ中学一年生である。
何かを「貫こう」とすると、様々な困難が生じてくる。予期せぬ出来事で傷ついたり、大人の事情で彼の道が塞がってしまう事もある。
そんな時、甘利田先生は彼に「これが現実だ。受け入れろ」と厳しく言う。
しかし、神野はそれでも必死に諦めない。
そんな彼に対して、現実はあまりにも容赦なく、剥き出しなまま襲いかかってくる。しかし、そこで向かってくる火の粉を一身に受け、彼を守る為に身を呈するのは、やっぱり甘利田先生なのである。
彼はこの時になってはじめて、神野を「子供扱い」する。「子供」を守るのが「大人」の役目なんだと、前に出て必死に彼をかばう。
この時、我々は「先生」を見る。私はこの「大人」に涙するのである。

神野は給食を食べることを全身全霊で楽しんでいる。その「全身全霊」をもってするものが奪われるならば、それは「生きている」のを否定される事と同義である。それを、現実的な困難はありながらも、何とか後続の世代の為に守ってやるのが「大人」である。その意味では甘利田は(普段は馬鹿らしいが)紛れもなく「先生」であり、「大人」である。

この作品は「給食バトル」に見せかけてあるが、一枚皮を剥がせば別のものが見えてくる。「子供」が何かの行為をもって「全身全霊」をあげて生きようとするのを、「全身全霊」もって見守り、そして、かばう「大人」の姿である。

そういう「大人」を、我々は久しく見ていない。この作品の設定が1984年なのは、その事が理由にあるのかもしれない。

                2021/06/17