「『恋空』に犯された俺の心」

ケータイ小説的。」という本を借りて少し読んだところで、「恋空」という作品がキーになると書いてあるので、意を決して2007年の映画「恋空」を観てみた。(さすがに、原作の携帯小説を読む勇気はなかった。)


ところで私は今、この文章を汗だくの状態で書いている。着ていたTシャツは脱いで、上半身は裸だ。畳が汗で濡れている。
何故かと言うと、さきほど真夏の真っ昼間に、20分ほど海沿いを走ってきたからである。
何故走ったのかというと、私の中に入ってきた「邪気」を祓う為だ。
では、何処からの「邪気」かと言うと、もちろん先程観終えたばかりの、「恋空」からのである。20分ぐらい走った所で、「邪気」は少しは祓われた気がしたので、後は私が感じている事を、文章という形で外に出す行為をもって、お祓いとしたい。


もう、疲れているので、あらすじは書きません。
でも、とにかく、
女子高生がヤンキーに惚れて、セックスして、他のヤンキーに集団でレイプされて、それでも優しくしてくれる彼氏に再びカラダをゆだねて(図書館で)、子供ができて、彼氏の元カノに突き倒されて流産して、彼氏が自宅パーティーで他の女とキスしている所を目撃して、だけどそれでも好きだけど彼氏の方から一方的に別れを告げられ(実は彼は癌を患っており、彼女を悲しませたくないので病気の事は伏せて別れるように仕向けていた)、大学生と新たな恋に落ち、しかし元カレが癌にかかってもうすぐ死ぬ運命にあるのを知ったのがきっかけで再会し再び恋人同士になって、最期までの貴重で大切な時間を二人で共有し、最期はテレビ電話の向こう側にいる主人公の笑顔を見ながら彼氏はあの世へと旅立つ。
と、こう言う話だ。

結局あらすじを書いてしまった。
でも、これは「あらすじ」と言うよりも「箇条書き」に近いかな。
だけど、実際にこの映画を観た人は分かると思うけど、大体こんな話しだし、かつこれで内容理解は十分じゃないですか?

この「箇条書き」の隙間にある(隙間だらけ)、読み取るべき隠された「感情」とか「情緒」とか「奥行き」とかありませんよね?少なくとも私には、「箇条書き的情報」以外に読み取れるものはあまり無かったなぁ。
全てがストレートで、直接的に感動的か残酷で。




と、口では言うものの、告白するのは恥ずかしい限りではあるのだが、、、
実は、後半の「主人公が大学生と別れて、元の彼氏の所に行く場面(大学生は好きな女の幸せを思って別れる)」辺りから、「死んだら空になって君をずっと見守るよ、と彼氏が言う場面」、「TV電話で彼女の笑顔を見ながら息を引き取る最期のシーン」まで私はずっーと泣きっぱなしだった。ほんとに。
自分でも不思議だった。
自分の心は完全に冷めているにもかかわらず(だって面白くないんだもの)、自動的に目から涙が出てくるからである。

そう、この感覚である。
私は先程、「邪気」が自分の中に入ってきたと表現したけれど、私はこの映画に自分の大切にしている、「心」を犯された気がしていたのである。

冒頭に挙げた「ケータイ小説的。」を少し読んだところで、その時代の代表的な歌手であった「浜崎あゆみ」と「ケータイ小説」の関連性が出てくる。
ケータイ小説」は「浜崎あゆみの世界観」のある種の「コード」を共有して、初めて意味を成す可能性があるとの記述がある。浜崎あゆみの歌詞とケータイ小説の内容はかなりの部分重なり合っており、読者はその物語の内容から「浜崎あゆみの世界観」を連想し、その文の中に「浜崎あゆみの世界観」を挿入、補完するというのである。日常的に浜崎あゆみを聴いているという行為があって初めてケータイ小説に感情移入できる(度合いが高くなる)のである。

つまり、物語を構成する要素の中に、ある種の「コード」が存在し、それと同じ「コード」を既に共有している者は、その予め学習済みの「コード」を通して、その物語に共感し感動しやすくなるのだ。和歌の世界で言えば、「本歌取り」になるのだろうか。引用された元の歌を知っている人と知らない人ではこの詩から得られる奥深さの度合いが違ってくるだろう。

(次のカッコ内は多少ふざけているので、読み飛ばしてください。どうしても入れたくて後から付け足したのです→)(あるいは、やくざ映画で言えば、物語冒頭で木枯らしの吹くような寒いなか、刑務所の門からたった今、出所したばかりのやくざの若頭(鶴田浩二を想像してください)を、弟分達(小池朝雄室田日出男を想像してください)が少し離れた所から「アニキ〜!アニキ〜!」と嬉しそうに言いながらまるで子犬のようにじゃれてくるかのように走って来て、「アニキ!長い間お勤めご苦労様でした!いやァー、アニキが帰って来たからにはこれで安心でさァ!アニキがいない間に〇〇会の腐れ外道どもがのさばってきゃあがってんで、俺らのシマぁ荒らし回っとるんすよ」と言いながら、自ら着て暖めておいた上着を弟分が兄貴に羽織るシーンが出てきたら(要するに1971年の映画「博徒外人部隊」を想像してください)、この男達がどんな人間なのか冒頭なので全くわからないはずなのに、このような「『アニキ~!』と言いながら走ってくる男達を見たら感動せよコード」をこれまで観てきた色々な映画やテレビドラマを通して刷り込まれ、共有している我々はもうすでに胸がいっぱい!!!って経験ありますよね??えっ!?無い!?こりゃ失礼!)



この説でいくと、私は「浜崎あゆみの世界観コード」は共有してはいないと思うが(2、3曲耳にした事はあるだろうけど、別に好きでも嫌いでもない)、どうやら「恋空」後半の男達がみせた、「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」を共有しているらしい。(実際に私がそういう人間であるとは言っていない。良くも悪くも憧れてしまうだけである)

この「コード」が出てきて、私の心の中にある特定の「ボタン」が自動的に押されると、私はロボットにでもなったかのように、無条件に涙腺からだらだら塩水が流れるように出来ているらしい。たぶん、そういう風になるように社会からも、あるいは自ら進んで刷り込まれてきた。

今作のように、たとえどんなに薄っぺらい物語であると感じてしまっても、私はこの「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」に決して抗えないようだし、これからもそうだろうと思う。
この「抵抗の出来ない無力感」を「邪気が入ってきた」、「犯された」と表現したのである。このような「箇条書き的内容」の、文脈や物語の流れが大事にされていない内容で、この「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」"のみ"で私を感動させて欲しくはなかったのである。(「浜崎あゆみコード」を共有すれば、私が薄っぺらいと思わざるを得ない内容に厚みを補完できるのかもしれないが、おそらく共有できない)
「冗談じゃない!俺はボタンを押せば無条件に感動するロボットじゃない!出来事と出来事のあいだの繋がりの文脈の中に生きてる、もがいてる人間だぞ!」
と思い、こんな猛烈に暑いさなか、海を横目に走って来たのである。
この「コード」の機能自体は文脈がキチンと繋がってさえいればとても良いものであると思うのであるが。


それと手短に、もう一つだけ。
このような「残酷」で「過酷」な物語を「リアル」である、と感じる少年少女たちがいる(いた)のかと思うと、胸がいたむ。

もっと優しい物語を「リアル」と感じられる社会を創るにはどうすれば良いのか。
「現実的層」でも、「物語的層」でも、今とは違う価値観を産み出さなければならない。



2021/07/29