「シン・仮面ライダーを観た③(シン・エヴァの仏教的解釈を通して)」

「シン・仮面ライダー」のテーマが何故、「孤高」「信頼」「継承」という、ある意味、普通で古臭いものなのか。

それを解き明かす為には、「シンエヴァ」の解釈まで遡らなければならない。

 

私の「シン・エヴァンゲリオン」の解釈は、「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」のおかげで、またさらに変化した。深化したといってよいと思う。

特に今回の「シン・仮面ライダー」を観終えて、「シン・エヴァ」との繋がりが「はっ!」と、一瞬で、何かが解った気がしたのだ。しかし、それを言語化するのが難しい。

 

今回はそれを試みてみたい。

 

では、

いきなり核心から申し上げる。

「シン・エヴァ」とは、否、「エヴァ」シリーズ全編とは、仏教における、「悟り」(最初の段階)に至るためのプロセスを、そして、その先のものをあらわした作品である。

 

突拍子の無いことを申し上げて、大変すまないとは思うが、是非とも最後まで聴いてほしい。

また、私のような未熟な者が(謙遜ではなく)このようなだいそれた事を言うのは本当は憚られるけれども、ここは勇気をもって書いてみたい。

 

「仏教」における「悟り」とは何か。

それは、「世の中には意味のある事など、何一つない。というか、『意味』というのは全く存在していない。『意味』とは人間が勝手に作り出しているもので、『意味』という『概念』はそもそも、この世の中に自存しない。(そもそも『概念』といのも人間が作り出した『概念』である。)やはり、『意味』は無い。」という事である(と思う)。

つまり、それを仏教用語では「一切空」というのである。

 

我々は何にでも、「意味」を求めたがる。

その最たるものが、

「人生に意味があるのか」

である。

多くの人々がその事について悩む。

 

でも、答えは簡単。

「『意味』はありません。」

である。

 

なんて底意地の悪い野郎だと思われたと思うが、もう少し、「イヤミな奴」にお付き合い願いたい。

 

このような人が居たとする。

「私は下積み時代に苦労して働きながらも、一念発起して会社を立ち上げ、今では一流大企業の社長にまでなった。」

普通は「いやぁ〜、素晴らしい人生ですねぇ〜。」と言うと思うが、私は「イヤミな奴」なので、こう質問する。

 

「で、だから、何になるの?(So what?)」

 

「えっ?だから何になるの?って言われても、、、。そうだなぁ、会社が大きくなると雇用が生まれて、従業員が増える。そして、その従業員たちの雇用をしっかり守る事で、彼らの家族も安定して幸せに暮らしていける。私はそれを誇りにしているし、大変意味のある事だと思う。」

 

 

「でも、人間いつか、必ず、死にますし。たとえ、その子供たちが生き続けても、太陽が消滅すれば地球は終わりですよ。会社がどうだとか、家族がどうだとかって、何か『意味』があるんですか?(So what?)」

 

普通は、ぶん殴られるか、無視されるかであると思うが、このようにかなり突き詰めて「So what?」と質問されると誰もが真正面からは答えられないと思う。

 

あるいは、このような方もおられるかもしれない。

 

「私は神の御心に従って生きています」

 

「で、何になるの?」

 

「それで、天国に行けるのです」

 

「で、何になるの?」

 

「そこでは、すべてが幸福に満ちております」

 

「で、何になるの?」

 

「ふざけるな!この悪魔ヤロウ!!パシン!」(張り手)

 

と、そうなるはずだ。

 

 

これは、何も彼らが悪いわけではなく、そもそもこの世の中には「意味」なんてないからだ。誰もこの「So what?」の連投には答えられない。

でも、私は決してそういう虚無的な事が言いたいわけではない。

 

ここで、「シン・エヴァ」の話になる。

数ある印象的なシーンで、私がずっと引っかかっていた、謎めいたシーンが2つある。

 

一つは最後の方の、海辺でマリを待っているシンジ君を描いた場面である。

画面は徐々に色が抜かれていき、続いて白紙に鉛筆で描かれたシンジ君と波が描かれ、終いには制作時に書かれたであろう、色などの指示の文字まで入り込んでくる。他のアニメでは見たこともない印象的な表現だ。

この後、マリが現れ、再び色が付き、大人になったシンジ君と駅のホームのシーンになり、マリを自ら連れ出して、実際(実写)の駅の外へ駆け出してゆき、エンディングになる。

 

これは一体、何を表しているのか。庵野は私達に何が言いたいのか。

 

私の解釈はこうだ。

 

このシーンは最後の最後の場面であるのだが、庵野はこの、シリーズの大詰めに来て、シリーズ約25年間の集大成の最後の場面に、「これは単なる『つくりもの』ですよ」と「本当は『意味』なんてありませんよ」と我々にメッセージを送っているのだ。

「今、貴方がたが見たものは、もともと白紙に鉛筆で線を引いただけのものを複数枚連続で見せているだけのものですよ。極端に言えば、パラパラ漫画と同じですよ」と。

しかし、また、「でも、われわれ、人間はこんな『パラパラ漫画』を見て、ものすごく熱中する事ができる。そこに『意味』を見出す事ができる。現に、ここまで観てくれた貴方がたは、この作品で悲しくなったり、嬉しくなったり、泣いたり、笑ったりしてくれた。そういう能力を持ったものを、『人間』と呼ぶのだ」と。

 

ここで、思い出されるのが、その前段階にあった、もう一つの印象深い、謎のシーン。父、ゲンドウとシンジ君の対話の場面。

父は、巨大な黒くぶよぶよした人型の謎の物体に対して、これは「エヴァンゲリオンイマジナリー」というものであると告げる。シンジ君は「黒いリリス」と呼んでいたが、父にはそうは見えない。どうやら、見る側によって形が違ってくる物体らしい。

続けて、父はこの謎の「エヴァンゲリオンイマジナリー」についてこう説明する。

以下は本編引用。

 

 

「『エヴァンゲリオンイマジナリー』

現世には存在しない、想像上の架空のエヴァ

 

虚構と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。

 

絶望と希望の槍(ヤリ)が互いにトリガーと贄となり、虚構と現実が溶け合い、全てが同一の情報と化す。

 

これで自分の認識、すなわち、世界を書き換える、アディショナルインパクトが始まる。

 

私の願いが叶う、唯一の方法だ。」

 

 

この場面が私には長らく謎のまま残った。だけれども、今は、こう解釈ができるようになった。

 

 

エヴァンゲリオンイマジナリー」を「エヴァシリーズ全編(アニメシリーズ、劇場版等)」

「虚構」を「アニメーション」

などに置き換えて、さらに補足説明も加えて、もう一度読んで頂きたい。

 

「『エヴァンゲリオンイマジナリー』=『エヴァシリーズ全編(アニメシリーズ、劇場版等)』とは、

 

現世には存在しない、想像上の「架空のエヴァ」=「アニメーション」である。(現実世界に、エヴァンゲリオンって居ませんよね?)

 

「虚構」=「アニメーション」と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。(だからこそ、こんなに熱狂的なファンがいる。)

 

絶望と希望の槍が互いにトリガーと贄となり(つまり視聴者がアニメーションに一喜(希望)一憂(絶望)するぐらい、まるでヤリのように自分の身体をこのアニメーション(エヴァイマジナリー)にのめり込ませることによって)、「虚構」=「アニメーション」と「現実」=「実人生」が溶け合い、全てが同一の情報(「現実」と「虚構」が等価値)と化す。

 

これで自分の認識(つまり、「現実」も、「虚構」も同等である。さらに言えば、「現実」も「虚構」も存在しない。それは人間が作り出している「意味」でしかない。)、すなわち、世界を(このように)書き換える、アディショナルインパクトが始まる。

 

私の願い(「一切空」を悟れば、「意味」なんてないのだから、もうはや絶望する必要がない。なぜなら、「自分の認識」=「自分が現実と思い込んでいるもの」は書き換え可能であるのだから。)が叶う、唯一の方法だ。」

 

 

どうだろうか?

私も頭をクラクラさせながら書いている。

分かりやすく書けているだろうか?

もう少し説明を加えたい。

 

「アニメーション」は「虚構」である。それは疑いの余地のない「真実」だ。

でも、待ってほしい。

では、我々が「現実」と思っている、この世界は、「真実」なのだろうか。

エヴァンゲリオンイマジナリー」のように、ある現実の同じ一つの事柄でも、見ている人によって、様相はまるで異なってくる、というのはよくある話しだ。

 

これは、「虚構」=「アニメーション」でも、事情は同じだし、このように、「現実」との構造は全く同じである。

 

つまり、「虚構」も「現実」も、自分の「認識」次第であり、「真実」なんて、この世に無いのである。

「真実」とは、言い換えると、「意味のある事」である。

「この世に真実は無い」ということは「この世に意味は無い」、つまり、「一切は空である」ということである。

 

 

エヴァ」という、「虚構」に、みずからの「希望」と「絶望」を託し、槍のようにねじ込ませ、「虚構」も「現実」も本当は「意味」がないということ、それは、自分の「認識」次第だと悟ること、それを父、ゲンドウは求めている。

 

そこに、シンジ君とミサトさんが立ちはだかる。

たしかにそうかもしれないが、しかし、それだけではいけない、と。

 

「絶望」も「希望」も、「世界」に対して、「受け身」の姿勢である。

「世界がこうなっているから絶望する」「世界がこうなってるから希望がある」(「絶望の槍」も「希望の槍」も「神」=「世界」から与えられたものだった。)

つまり、「アニメの内容(=世界)がこうなっているから、絶望する、あるいは希望が持てる」

この二本の槍では、すべてが解体した、意味の無い世界にたちうちできない。

この解体された「無意味」な世界のなかにおいて、自らの「意志」によって、「無意味な世界」を「人が幸福になるような世界」に再構築していく。これこそが、ミサトさんとシンジ君が新たに産み出した、「ヴィレの槍」「意志の槍」である。

 

この、「一切空」という、ゲンドウが皆に悟らせた世界(=真理)に、シンジ君とミサトさんが生み出した「意志」をねじ込んで、世界を再構築する、それこそが「アディショナルインパクト」なのだ。

 

そして、シンジ君は最後の駅を出てゆく場面で、その「真理」=「マリ」の手を取って、「現実世界」=「実写の世界(特撮)」へ駆け出してゆく。「世界を良いようにする」という彼の「意志」を持って。

 

 

彼の「意志」は、「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」によって、「世界を再構築」しはじめている。

 

「シン・ウルトラマン」では、「理解も共感も絶する他者との狭間に、あえて、身をおき、共存をはかる」という、「他者との共存」という「概念」を。

 

「シン・仮面ライダー」では、「孤高」「信頼」「継承」という「概念」を。

 

庵野はこれらの「概念」を、この混沌とした、「なんの意味の無い世界」において、「再構築」している。だから、テーマが古臭く、普通な感じにみえるのだ。もう一度、「孤高」「信頼」「継承」という人間にとって、絶対に必要な「概念」を、この世界に立ち上げようとしているのだ。

 

これこそが、「シンエヴァ」からはじまる、3作品の、「意味」だ。

 

「意味」は、自らの「意志」によって、産み出さなければならない。

 

庵野作品」という、「世界」に、自らの「意志の槍」をもって、身をねじ込み、そこから、「現実」も「虚構」も無い、「一人の人間」として、この「世界」に(あえて言えば「現実に」)、「意味」をひとつひとつ、自らの名をもって(一文字が最後に、竹野内豊斎藤工に名前を聞くのはその為だ)付与してゆかなければならない。

 

何故なら、この、「一切空」の世界に、一時的であるにせよ「意味」を付与するのは、名を明かして、自らの身体をかけて、責任を引き受けて生きる者だけだからだ。

 

 

 

 

              2023/03/26㈰