「子育てEVANGELION説 前編」

「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観た。劇場で4回観た。
4回目は来場特典の小冊子が欲しくて観に行った。普段ならそんな事しないと思う。けど、今回に限ってはこの素晴らしい作品をリアルタイムで観たんだぞ、という自分に対しての確かな証が欲しくて。

エヴァンゲリオン」は、2016年の「シン・ゴジラ」の影響で観始めた。(話題の映画というだけで、何の前知識も無しに劇場で観てしまったシンゴジラは、本当に衝撃だった。その夜はゴジラに踏み潰される夢にうなされた。以来、とても好きな作品になっている)
なので、今回の「シン・エヴァ」以外はリアルタイムで観てない。
けれども、TVアニメ版から劇場版、新劇場版までの、これまでの作品はDVDで2、3回は観た。それ程までに好きな作品である。全くもって新参者のファンではあるが、勇気をもってここに、「現時点での自分にとって、エヴァをどういう風に捉えたのか」感想と考察のような物を書いてみたい。

まず予め、防衛線を張っておくが、私は「エヴァ」に関する一切の通説を知らない。本やネットでも調べたことはないし、身近に話せる人もいなかった。
従って、これから書くものが既にファンの間では当然の事であったり、あるいは全く有り得ないと言われる類のものかもしれない。
しかし、まぁ、それだからこそ書けるものが、もしかするとあるかも知れないので、どうか許して頂きたい。



それでは、本題。
私はこの複雑怪奇な一連の作品が、実はあまりにもありふれた、人間的なテーマを軸に構成されてできている物語であるとみた。
それは「子育て」である。
碇ゲンドウ(主人公の父)が碇シンジ(主人公)を、「大人」にすべく、ありとあらゆる「困難」を使って育て上げる「碇ゲンドウの子育て」物語として、である。

「そんな馬鹿な!」と思われるかも知れないが、思い出してみて欲しい。
TVアニメ版の第一話(あるいは新劇場版:序の冒頭)でのシンジ君と父、ゲンドウの初対面シーン。迫りくる使徒(敵)を前にして、シンジ君はゲンドウに「エヴァに乗れ、そして、あれと戦え」と言われる。「見たことも、聞いたこともないのに、いきなりこんなの乗れるわけないよ!できっこないよ!」と応えるシンジ君に対して、ゲンドウは無理矢理に乗せるわけでもなく、「できないのなら、説明を受けろ」と返す、あの場面である。
状況は確かに異常ではあるが、「父が子に何かを教える」という事で言えば、ある意味「普通」ではないか。
「子供」はまだ世界がどのように成り立っているかを知らず、またそれを受け入れないが故に「子供」なのである。だから、「大人」がそれを教えなければならない。
ゲンドウはこの組織のトップであるから部下に命ずれば、ひ弱なシンジ君を無理やり乗せる事は造作もないはずだ。しかし、彼は「説明する」と言っているし、「イヤなら帰れ!」と言い方はキツイが、あくまでシンジ君の意思に委ねている。
ただのロボットアニメなら、力の差が歴然とあるこの父と子の「乗れ」、「乗りたくない」のやり取りはいらないはずだ。さっさと力付くで乗せればいいのだから。
しかし、それでも「乗りたくない、できない」と繰り返すシンジ君に対して、父が次に繰り出すのが、綾波レイ(母のコピー)の傷ついた姿である。お前が乗らないなら、もう既に傷だらけの担架にのせられたレイを代わりにエヴァに乗せると父は言うのである。
観てる最中は状況に圧倒されて、納得させられていたが、あんな傷だらけの状態で最初から乗れる訳ないじゃないか。今、思うとあれも父の(そして母の)、子に対する困難な世界へ踏み出すための誘導=「子育て」であったのではないか。
結局、使徒の攻撃によって、さらに傷つき血だらけになったレイ(≒母)を見て、ようやくシンジ君は自分の意思で、エヴァに乗る事を決心する。否、自分で決心するように父(と母)に仕向けられる。
やっと決心してエヴァに乗ったものの、いきなり困難な世界(この場合、エヴァの操縦と、敵である使徒)に直面するのは、いくらなんでも流石に辛すぎるものがあるので、「エヴァ(=母)の暴走(=手助け)」という形をとって、この状況を乗り切る。シンジ君は歩く事しかできなかったが(それでも驚いたリツコの「歩いた!」は印象的)、親としては、初めは一、二歩、歩ければそれでだけで十分である。

事程左様に、実はこの物語は冒頭からすでに「子育て」全開に始まっていたと思われるのである。

思ったより長くなりそうなので、前編と後編に分けて、後編では「シン・エヴァンゲリオン」の内容を中心に論じてみたい。
少し疲れたから、後編は後日に書きます!

                2021/06/24