「昭和のエートス」VS「2017年女子高生の夢」

友人(同い年)が「あまりにも共感できなさ過ぎて、逆に面白かった」と言うので、少女漫画原作で2017年公開の映画「PとJK」を観てみた。あまりこういう女子高生向けであろう映画は観てこなかったので、大いに発見があった。ここに感想と少しの考察を述べてみたい。

まず、最初に言っておきたいのは、全体に渡る辻褄の合わなさや、現実離れ感の指摘は不粋であろう。これは2017年の育ちの良い女子高生の理想であり妄想である。観ている女の子(主に高校生以下?)にキュンキュンしてもらうのが目的の映画なので、彼女たちの望んでいるような展開になるのは仕方がない。
「えっ?こんなんで結婚するの??」とか「両親許すんかい!」とか言うのは寝ている人の夢の内容に文句を言うものである。
そんなことはどうでもいい。

私たち(別にキュンキュンしなくていい人たち)が見るべきものは、2017年の女子高生が何を理想とみなし、欲望しているのか、である。

今回の、この「夢」の中の欲望の勘所は、映画の終盤にあった。「命をかけて君を守る」と言ってヒロインと結婚した、亀梨和也演ずる警察官である男、コウタ君、26歳(高校生の時に、自分を守るために命を投げ出して死んだ、警察官である父に憧れて、同じ警察官になった)が実際に、土屋太鳳演ずるヒロインのカコちゃん、(16歳、女子高生)を救う為に身体を投げ出してナイフで腹を刺され、生死の境を彷徨うという場面にある。

この血なまぐさい場面において、「子連れ狼」や「鬼平犯科帳」といった時代劇が好きな私は、いつもの自分の領域に入ってきたとばかりに、思わず、この先の展開を妄想し始めた。(妄想せざるを得なかったと言ってもよい)
コウタ君は自分の父と同じように愛する人の為に、我が身をナイフの前に投げ出して倒れる。そして、泣きじゃくるヒロインに「大神君(ヒロインと仲の良い同級生、コウタ君にとっては恋敵)と仲良くな」と言い、そして、その場に居合わせた大神君にも「カコのことを、よろしく頼む」と最期に言って、息絶える。
大神君も「ふざけんなよ!カコちゃんはお前のことが好きなんだよ!死んだら許さねぇぞ!!」と襟首を掴みながら訴えるがもうすでに遅し。

そして月日は流れ、卒業式が終わり、ヒロインと大神君の2人は、死んだコウタ君を悼みながらも未来を見据えながら、帰り道を歩いて行く、、、エンド。

それだけの事を一瞬で妄想した私は、さぁこれからどうなるのだろうと、わくわくしながら事の成り行きを見守った。

しかし、こんな成り行きになるはずは、もちろん無い。改めて言うが、これは2017年の女子高校生の見ている夢である。

生死を彷徨ったコウタ君は病室で意識を取り戻すのである。
私はここで、ヒロインが有言実行の勇敢な夫に感謝してハッピーエンドか、と思った、が、これも違う。

私の想像とは反して、ヒロインは泣きながら「私、本当に命を投げ出して守られるなんて、重くて、そんなの耐えられない!」と言い、結婚指輪を返し、病室を出ていくのである。

私は、あまりにも自分の想像外の言葉と行動に、一瞬何が起ったのかわからなかった。夫が身体を投げ出さなければ、自分が刺されていた状況なのである。その事によって絆が深まるのではなく、逆に関係が崩壊するとは。
控えめに言って、衝撃である。
こんなの見たことない。

私はこの場面以前のユルイ鑑賞態度を改め、真剣に観始めた。ここからは私の想像の外の、まさに未知の領域である。

ヒロインは一体、何にそんなに怒っていたのか。最後まで観ての結論から言ってしまえば、彼の「父親からの呪い」に対して怒っていたのである。彼女の無意識の狙いは、その呪いの解除にあった。

その後、刺された傷も癒え、現場復帰したコウタ君はある日、ヒロインの学校で、警察官の講習会をして欲しいと招かれる。
そして、最後の質疑応答で、カコちゃんの女友達から質問をされる。
「常に命の危険のある警察官という仕事を、どうして続けることができるのですか」と。
その質問に対して、カコちゃんが見ているなか、意を決して彼は応える。
「今までは、父が僕にしてくれたように、命をかけて愛する人を守るのが警察官の仕事だと思ってきました。でも、今は違います。愛する人とずっと一緒にいるために、僕は警察官という仕事をしているのです。僕はある人に、その事に気付かされました」と。
それを聴いてヒロインは感動し、講演後の誰もいなくなった体育館で二人は抱きしめ合い、関係が修復されるのである。
これで、エンド。

これまで観て、私はようやく病室でのヒロインの怒りの意味がわかったのである。
先程も言ったように、それは「父親からの呪い」に対してなのである。

この場合、「父親からの呪い」とは、江戸時代で言えば「武士の本懐」、昭和前期で言えば「天皇陛下万歳」である。
いずれも、我が身を犠牲にしての「主君の為の死」こそ最上の誉れであり、男たちが目指すべきとされた憧れであった。
それが戦後の昭和、「主君」が「会社」や「社会」などに形を変え、男たちのエートスとして、何かの犠牲になる事は良い事である、と受け継がれてきた。
その系統にコウタ君の父がいる。彼はその男としての「義務」を立派に果たした。
コウタ君は自分にも愛する人ができ、それを父のように必死に守るが、その結果が、ヒロインからの全否定である。
ここから、二人の関係を継続するには、父から受け継いだ「昭和のエートス」を守り抜いて、ヒロインを説得するか(でも、出来ないかもしれない。「説得される」という事は彼女の夢の中には無いように見える)、「昭和のエートス」を「父親からの呪い」と言い換え、それを「受け継ぐもの」から「解除すべきもの」へと認識を変更するかのどちらかである。
彼は後者を選んだ。
男のエートスの大転換である。
「男の本懐」よりも、「二人で一緒にいる当たり前の生活」の方が大事。
言葉にするとアッサリして軽く見えるが、私はこれを良いことであると祝ぎたい。何かの犠牲になってカッコつけるよりも、二人で楽しく暮らそうよ、と。コウタ君は良い選択をしたのだと思う。新しい発見であった。

この映画は、言わば「昭和のエートス」VS「2017年女子高生の夢」(あるいは「高倉健 VS Jk」)の戦いが水面下でおこなわれていた闘争の映画で、「2017年女子高生の夢」の中の「欲望」としては、男たちの「昭和のエートス」を打ち負かして、そんなものには何にも価値はないのよと、全否定して教え諭してあげたいというのがあったのではないか(「こう言う何でも対立的に表す言い方が良くないって言ってるのよ」とカコちゃんに怒られると思う)。

私の友人も私も、この映画に共感はできなかったが、だからこそ大変に面白く観られた。
思えば私たち二人は、共に平成元年生まれであり、昭和に生き、心の所在を昭和に置く父を持っている。私は彼らに憧れて生きてきた(多分、友人も)。でも、色々な物事にガタが来てしまっているこの困難な時代においては、それだけではもうダメなのかもしれない。彼らから受け継ぐものをどう捉え直すか。それはこの映画ほど単純ではないにしても、何かの助けにはなるかもしれない。

2021.5.28



というのを書いて二週間程経ってから、この映画が実はそこまでヒットしていないというのを知った。
「2017年女子高生の夢」と題うったのだが、そもそもこの映画がそれを表していたのか、少し自信がない。