「シン・仮面ライダーを観た③(シン・エヴァの仏教的解釈を通して)」

「シン・仮面ライダー」のテーマが何故、「孤高」「信頼」「継承」という、ある意味、普通で古臭いものなのか。

それを解き明かす為には、「シンエヴァ」の解釈まで遡らなければならない。

 

私の「シン・エヴァンゲリオン」の解釈は、「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」のおかげで、またさらに変化した。深化したといってよいと思う。

特に今回の「シン・仮面ライダー」を観終えて、「シン・エヴァ」との繋がりが「はっ!」と、一瞬で、何かが解った気がしたのだ。しかし、それを言語化するのが難しい。

 

今回はそれを試みてみたい。

 

では、

いきなり核心から申し上げる。

「シン・エヴァ」とは、否、「エヴァ」シリーズ全編とは、仏教における、「悟り」(最初の段階)に至るためのプロセスを、そして、その先のものをあらわした作品である。

 

突拍子の無いことを申し上げて、大変すまないとは思うが、是非とも最後まで聴いてほしい。

また、私のような未熟な者が(謙遜ではなく)このようなだいそれた事を言うのは本当は憚られるけれども、ここは勇気をもって書いてみたい。

 

「仏教」における「悟り」とは何か。

それは、「世の中には意味のある事など、何一つない。というか、『意味』というのは全く存在していない。『意味』とは人間が勝手に作り出しているもので、『意味』という『概念』はそもそも、この世の中に自存しない。(そもそも『概念』といのも人間が作り出した『概念』である。)やはり、『意味』は無い。」という事である(と思う)。

つまり、それを仏教用語では「一切空」というのである。

 

我々は何にでも、「意味」を求めたがる。

その最たるものが、

「人生に意味があるのか」

である。

多くの人々がその事について悩む。

 

でも、答えは簡単。

「『意味』はありません。」

である。

 

なんて底意地の悪い野郎だと思われたと思うが、もう少し、「イヤミな奴」にお付き合い願いたい。

 

このような人が居たとする。

「私は下積み時代に苦労して働きながらも、一念発起して会社を立ち上げ、今では一流大企業の社長にまでなった。」

普通は「いやぁ〜、素晴らしい人生ですねぇ〜。」と言うと思うが、私は「イヤミな奴」なので、こう質問する。

 

「で、だから、何になるの?(So what?)」

 

「えっ?だから何になるの?って言われても、、、。そうだなぁ、会社が大きくなると雇用が生まれて、従業員が増える。そして、その従業員たちの雇用をしっかり守る事で、彼らの家族も安定して幸せに暮らしていける。私はそれを誇りにしているし、大変意味のある事だと思う。」

 

 

「でも、人間いつか、必ず、死にますし。たとえ、その子供たちが生き続けても、太陽が消滅すれば地球は終わりですよ。会社がどうだとか、家族がどうだとかって、何か『意味』があるんですか?(So what?)」

 

普通は、ぶん殴られるか、無視されるかであると思うが、このようにかなり突き詰めて「So what?」と質問されると誰もが真正面からは答えられないと思う。

 

あるいは、このような方もおられるかもしれない。

 

「私は神の御心に従って生きています」

 

「で、何になるの?」

 

「それで、天国に行けるのです」

 

「で、何になるの?」

 

「そこでは、すべてが幸福に満ちております」

 

「で、何になるの?」

 

「ふざけるな!この悪魔ヤロウ!!パシン!」(張り手)

 

と、そうなるはずだ。

 

 

これは、何も彼らが悪いわけではなく、そもそもこの世の中には「意味」なんてないからだ。誰もこの「So what?」の連投には答えられない。

でも、私は決してそういう虚無的な事が言いたいわけではない。

 

ここで、「シン・エヴァ」の話になる。

数ある印象的なシーンで、私がずっと引っかかっていた、謎めいたシーンが2つある。

 

一つは最後の方の、海辺でマリを待っているシンジ君を描いた場面である。

画面は徐々に色が抜かれていき、続いて白紙に鉛筆で描かれたシンジ君と波が描かれ、終いには制作時に書かれたであろう、色などの指示の文字まで入り込んでくる。他のアニメでは見たこともない印象的な表現だ。

この後、マリが現れ、再び色が付き、大人になったシンジ君と駅のホームのシーンになり、マリを自ら連れ出して、実際(実写)の駅の外へ駆け出してゆき、エンディングになる。

 

これは一体、何を表しているのか。庵野は私達に何が言いたいのか。

 

私の解釈はこうだ。

 

このシーンは最後の最後の場面であるのだが、庵野はこの、シリーズの大詰めに来て、シリーズ約25年間の集大成の最後の場面に、「これは単なる『つくりもの』ですよ」と「本当は『意味』なんてありませんよ」と我々にメッセージを送っているのだ。

「今、貴方がたが見たものは、もともと白紙に鉛筆で線を引いただけのものを複数枚連続で見せているだけのものですよ。極端に言えば、パラパラ漫画と同じですよ」と。

しかし、また、「でも、われわれ、人間はこんな『パラパラ漫画』を見て、ものすごく熱中する事ができる。そこに『意味』を見出す事ができる。現に、ここまで観てくれた貴方がたは、この作品で悲しくなったり、嬉しくなったり、泣いたり、笑ったりしてくれた。そういう能力を持ったものを、『人間』と呼ぶのだ」と。

 

ここで、思い出されるのが、その前段階にあった、もう一つの印象深い、謎のシーン。父、ゲンドウとシンジ君の対話の場面。

父は、巨大な黒くぶよぶよした人型の謎の物体に対して、これは「エヴァンゲリオンイマジナリー」というものであると告げる。シンジ君は「黒いリリス」と呼んでいたが、父にはそうは見えない。どうやら、見る側によって形が違ってくる物体らしい。

続けて、父はこの謎の「エヴァンゲリオンイマジナリー」についてこう説明する。

以下は本編引用。

 

 

「『エヴァンゲリオンイマジナリー』

現世には存在しない、想像上の架空のエヴァ

 

虚構と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。

 

絶望と希望の槍(ヤリ)が互いにトリガーと贄となり、虚構と現実が溶け合い、全てが同一の情報と化す。

 

これで自分の認識、すなわち、世界を書き換える、アディショナルインパクトが始まる。

 

私の願いが叶う、唯一の方法だ。」

 

 

この場面が私には長らく謎のまま残った。だけれども、今は、こう解釈ができるようになった。

 

 

エヴァンゲリオンイマジナリー」を「エヴァシリーズ全編(アニメシリーズ、劇場版等)」

「虚構」を「アニメーション」

などに置き換えて、さらに補足説明も加えて、もう一度読んで頂きたい。

 

「『エヴァンゲリオンイマジナリー』=『エヴァシリーズ全編(アニメシリーズ、劇場版等)』とは、

 

現世には存在しない、想像上の「架空のエヴァ」=「アニメーション」である。(現実世界に、エヴァンゲリオンって居ませんよね?)

 

「虚構」=「アニメーション」と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。(だからこそ、こんなに熱狂的なファンがいる。)

 

絶望と希望の槍が互いにトリガーと贄となり(つまり視聴者がアニメーションに一喜(希望)一憂(絶望)するぐらい、まるでヤリのように自分の身体をこのアニメーション(エヴァイマジナリー)にのめり込ませることによって)、「虚構」=「アニメーション」と「現実」=「実人生」が溶け合い、全てが同一の情報(「現実」と「虚構」が等価値)と化す。

 

これで自分の認識(つまり、「現実」も、「虚構」も同等である。さらに言えば、「現実」も「虚構」も存在しない。それは人間が作り出している「意味」でしかない。)、すなわち、世界を(このように)書き換える、アディショナルインパクトが始まる。

 

私の願い(「一切空」を悟れば、「意味」なんてないのだから、もうはや絶望する必要がない。なぜなら、「自分の認識」=「自分が現実と思い込んでいるもの」は書き換え可能であるのだから。)が叶う、唯一の方法だ。」

 

 

どうだろうか?

私も頭をクラクラさせながら書いている。

分かりやすく書けているだろうか?

もう少し説明を加えたい。

 

「アニメーション」は「虚構」である。それは疑いの余地のない「真実」だ。

でも、待ってほしい。

では、我々が「現実」と思っている、この世界は、「真実」なのだろうか。

エヴァンゲリオンイマジナリー」のように、ある現実の同じ一つの事柄でも、見ている人によって、様相はまるで異なってくる、というのはよくある話しだ。

 

これは、「虚構」=「アニメーション」でも、事情は同じだし、このように、「現実」との構造は全く同じである。

 

つまり、「虚構」も「現実」も、自分の「認識」次第であり、「真実」なんて、この世に無いのである。

「真実」とは、言い換えると、「意味のある事」である。

「この世に真実は無い」ということは「この世に意味は無い」、つまり、「一切は空である」ということである。

 

 

エヴァ」という、「虚構」に、みずからの「希望」と「絶望」を託し、槍のようにねじ込ませ、「虚構」も「現実」も本当は「意味」がないということ、それは、自分の「認識」次第だと悟ること、それを父、ゲンドウは求めている。

 

そこに、シンジ君とミサトさんが立ちはだかる。

たしかにそうかもしれないが、しかし、それだけではいけない、と。

 

「絶望」も「希望」も、「世界」に対して、「受け身」の姿勢である。

「世界がこうなっているから絶望する」「世界がこうなってるから希望がある」(「絶望の槍」も「希望の槍」も「神」=「世界」から与えられたものだった。)

つまり、「アニメの内容(=世界)がこうなっているから、絶望する、あるいは希望が持てる」

この二本の槍では、すべてが解体した、意味の無い世界にたちうちできない。

この解体された「無意味」な世界のなかにおいて、自らの「意志」によって、「無意味な世界」を「人が幸福になるような世界」に再構築していく。これこそが、ミサトさんとシンジ君が新たに産み出した、「ヴィレの槍」「意志の槍」である。

 

この、「一切空」という、ゲンドウが皆に悟らせた世界(=真理)に、シンジ君とミサトさんが生み出した「意志」をねじ込んで、世界を再構築する、それこそが「アディショナルインパクト」なのだ。

 

そして、シンジ君は最後の駅を出てゆく場面で、その「真理」=「マリ」の手を取って、「現実世界」=「実写の世界(特撮)」へ駆け出してゆく。「世界を良いようにする」という彼の「意志」を持って。

 

 

彼の「意志」は、「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」によって、「世界を再構築」しはじめている。

 

「シン・ウルトラマン」では、「理解も共感も絶する他者との狭間に、あえて、身をおき、共存をはかる」という、「他者との共存」という「概念」を。

 

「シン・仮面ライダー」では、「孤高」「信頼」「継承」という「概念」を。

 

庵野はこれらの「概念」を、この混沌とした、「なんの意味の無い世界」において、「再構築」している。だから、テーマが古臭く、普通な感じにみえるのだ。もう一度、「孤高」「信頼」「継承」という人間にとって、絶対に必要な「概念」を、この世界に立ち上げようとしているのだ。

 

これこそが、「シンエヴァ」からはじまる、3作品の、「意味」だ。

 

「意味」は、自らの「意志」によって、産み出さなければならない。

 

庵野作品」という、「世界」に、自らの「意志の槍」をもって、身をねじ込み、そこから、「現実」も「虚構」も無い、「一人の人間」として、この「世界」に(あえて言えば「現実に」)、「意味」をひとつひとつ、自らの名をもって(一文字が最後に、竹野内豊斎藤工に名前を聞くのはその為だ)付与してゆかなければならない。

 

何故なら、この、「一切空」の世界に、一時的であるにせよ「意味」を付与するのは、名を明かして、自らの身体をかけて、責任を引き受けて生きる者だけだからだ。

 

 

 

 

              2023/03/26㈰

「シン・仮面ライダーを観た②(あるいは古びたテーマ)」

「シン・仮面ライダーを観た①」では、私が、「庵野作品」を「弟子(勝手に自称)」としての立場で観ているということを書いた。

 

今回は弟子として、どう観たかを書こうと思う。

(しかし、あらかじめ言っておくけれど、割とわかりきってるかもしれない「普通」な事を言います。)

 

「シン・仮面ライダー」、テーマは「孤高」「信頼」「継承」。これはポスターに書いてあった通り。

そして、そこに「願い」と「幸福」という補助線を入れるとわかりやすくなる。

 

敵のオーグ達(KKオーグ以外)と、主人公達はみなそれぞれに「願い」をもっている。

 

クモオーグはとにかく己の力を誇示して相手を制圧したい。そして、それが彼の「願い」であり「幸福」である。

 

コウモリオーグはみずからの発明したウィルスによって、弱い者たちを淘汰し、残った強者のみによって構成されている社会こそが理想であると信じている。そして、そのことによって、自分が正しかったと認めさせることを願っており、それが彼の「幸福」である。

 

ハチオーグはみなが従順になる社会を、チョウオーグのイチロウさんは「本音だけの世界」(これは碇ゲンドウと一緒)になることが「願い」であり「幸福」である。

(あ、サソリオーグを忘れていた。彼女はひたすら、「エクスタシー!!」)

 

彼らははみな自分がどうしたら幸福になれるのかを知っており、それをを追求するためだけに生きている。自らの「幸福」を追求することこそが彼らの「願い」である。

 

一方、主人公達はそう単純ではない。

 

仮面ライダー1号、本郷猛はそもそも「幸福」に対する欲求がない。そういう言及は一切無かった。しかし、「父親を理不尽から守れなかった」という自責の念は強く、「力を、誰かを守る為に使いたい」という「願い」はある。(願いはあるが、はたして自分がこの恐ろしいまでの強い力をコントロールできるのか、「優しさ」あるいは「弱さ」ゆえの葛藤を抱えている。コウモリオーグとの対決の後に、闘う事を決心した本郷に対して、ルリ子が、「そういう事にしたのね」というセリフがある。彼は無理やり自分をそういう立場に押し上げたのだ。他人を守りたい気持ちもあるが、やはり自分がその力を「正しく」使えるか、逆に他人を傷つけるのではないかと怖いのだ。(自分が傷つくのが怖いというのも、そうは見えなかったが、もしかするとあるのかも知れない。)だから彼は画面上で常に微妙に震えていたし(震えてましたよね?はじめは自分の目が霞んでいるのかと思ったくらい微妙に)、感情が見えない抑揚のないセリフがその葛藤の強さを表現していた。一度でも感情を出してしまうと、抑えている「弱さ」が溢れ出し、自分がこの場から逃げ出してしまうのではないかと怖れているように見えた。)

 

緑川ルリ子は、「兄のイチロウが求めている幸福」は間違っている、という事まではわかるが、では何が「幸福」なのかはわからない。それを知りたいというのが彼女の「願い」。

 

仮面ライダー2号、一文字隼人は「スッキリして、良い気分」になりたい、おそらくそれが自分の「幸福」であるはずだ、ということまではわかっているのだが、では、どうすればよいのかはわからない。それを知りたいのが彼の「願い」。

 

このように、彼らは自分にとって何が「幸福」なのかがわからない。本郷に関して言えば、そもそも「幸福」に関心がない。(あるいはそれが「主人公」であるための条件なのかもしれない。)

 

しかし、物語が進むにつれ、ルリ子は自分以外の「他人を信頼する」ことで、一文字は「人から信頼され、願いを継承される」ことで、初めて「幸福」になる。

つまり、「自らの幸福追求」ではなく、他人を経由してのみ、はじめて自らの「幸福」があるのだと悟るのである。他人の為に幸せを願うことこそが彼らの「幸福」であった。そこが他のオーグ達と異なる点である。

 

 

話をまとめてみる。

まず、自分を信じ、孤立を恐れずに一人で全世界の責任を負って生きる。それが、「孤高」。(大変な生き方だなぁ)

 

その「孤高」である複数の人物たち(緑川博士、ルリ子、本郷、一文字)が出会い、協力し信じ合う。「信頼」。

 

その「信頼」している者へ、世界が少しでも良い方へ向かってほしいという、自分の「願い」を託す。これが、「継承」。

(これは原作を庵野が継承する姿勢でもあるはずだ。また、庵野が観客に対しても、また求めている事ではないか)

 

そして、最後に、そこまでできる人々に出会えた事による「幸福」。

これが今回の「シン・仮面ライダー」のテーマだったはずだ。

 

これまで読まれた方々は大筋において、納得してもらえたのではないかと(多分)思う。

しかし、やはり少し拍子抜けしたのではないか。

庵野作品にしてはなんだか、普通」「使い古された、古臭い、単純なテーマだな」と。

あるいは、「この事がテーマであるなんて、言われなくとも分かっていたけれど、だからといってそんなに魅力的な作品とも思えない」とも。

 

私も、(あるいは)そう思う。しかし、庵野は何故、そのような「普通のテーマ」を作品として世に出さなければならなかったのか。

「シン・仮面ライダーを観た③」では、「シン・エヴァンゲリオン」まで遡って論じてみたい。

 

さて、いよいよこれからが、私が本当に言いたいことである。(ここからが本題!がんばるぞ!)

 

 

                         2023/03/25㈯

 

「シン・仮面ライダーを観た①(自称弟子として)」

「シン・仮面ライダー」を観た。公開初日舞台挨拶生中継の日に観た。

観終わって、「あぁ、また、素晴らしい作品が世の中に一つ増えた。(登場人物たちの感情の推移が少し分かりづらかったのはあるけれど、それにしても、)こりゃ、みんな日本中が大騒ぎするぞ」と思った。素直に感動した。胸が熱くなった。

 

2日後の日曜日の休日、私は居ても立っても居られず、2回目を観た。

1回目では、少し判然としなかった登場人物の感情の推移が、よく見ると、わかりにくいけれど確かに描かれていることに胸を打たれた。「あぁ、本郷とルリ子の信頼関係の構築は確かにあったなぁ」と再び胸が熱くなった。本当に身体の中心から沸き立つものを感じた。私も本郷のように葛藤を抱えながらも良い方向に願い続け、格好良く生きたい。そして一文字のようにそれを受け継ぎたいと思った。

 

 

しかし、翌日、たまたまあがっていたツイッターでの感想をいくつか読んだらびっくりした。

「ストーリー展開が雑なうえに、登場人物の心理描写がよくわからない。非人間的」「役者は豪華なのに、変な演技をさせている」「特撮アクションも別に大した事はなかった」等々、どれも、総じて「なんか、期待ほどじゃなかった。駄作ではないにしても、そこまでおもしろくはない」という感想だった。

私は意表を突かれた気持ちで、それ以上感想を読むのを一旦止めた。

(後日、感想を見直したら、実際は賛否、半々ぐらいだった。)

 

そして、考え込んだ。

というのは、彼らの感想に「なるほど」と思うこともあったからだ。確かに一理あるなと思ってしまった。むしろ当たっている気がした。しかし、だからといって私の感想はどうも全く変化しない。なにも意地になってるわけでも無いと思う。まだ身体の熱が確かにあるのだ。なんだか、変な気持ちだ。

 

5日間考えて、金曜日になった。

そして、ようやくこう思った。

「彼らの感想は間違っていない。彼らの方があるいは正しいし、客観的だ」嫌味なくそう思った。

しかし、こうも思った。

「私の「庵野作品」に対する姿勢はもしかすると、特殊なのかもしれない。良く言えば「弟子が師匠に向ける眼差し」、悪く言えば、「何でも良いように勝手に思い込む関係妄想的」ではないか」と。

 

本編と無関係になるが、少し説明させて下さい。

 

私の大変尊敬する、武道家で思想家の内田樹先生によると、

弟子にとって、師匠とは「そこに全てを見出だせる、完全記号」として機能する存在の事である。

つまり、すごくざっくばらんに言うと(言い過ぎると)、「自分より、師匠の方が正しい」ということである。

例え、自分と意見が違う事や疑問点があっても、「そんな事、師匠が気が付かないはずがないじゃないか。師匠は自分に何かを教える為に『あえて』そうしているのだ。あるいはそもそも、自分は何か大事なものを見落としているのかもしれない」と、「勝手に」思うことである。(師匠にそんなつもりがなくても)

 

 

「なんか、カルト宗教っぽくてコワい」

と思われた方もいたと思う。

 

違います。

カルト宗教は自分が洗脳されている事に気が付かないが、

こう言ってよければ、師弟関係は「あえて」自ら進んで洗脳されるのである。(ものすごく変な言い方だけれども)

 

だって、師匠だって人間なんだから、適当な事も言うだろうし、時には間違った事もするだろう。

そんな事私にだってわかる。

「全てが正しい人間」なんているわけないじゃないですか!

 

しかし、「師匠の言動は完全記号である」という「物語」を、「フィクション」を、自らに引き受けることによって得られる境地も確かにある。

 

本当に「物凄い思考」とは、自分が思考できる範囲外の思考の事である。今の自分になんかわかるはずがない。

その思考を追体験するには、一旦、自分を、自分の思考法の枠組みを捨てて、その思考に身を投じなければならない。

 

要するにそれを「成長」というのである。

 

 

話がやっと戻ってきたが、私にとって「庵野作品」とはそういう「物凄い思考」なのだ。

庵野作品」を観る時には、できるだけ自分の思考は捨て去り、物語の渦の中に自分をねじこむ。(というか、勝手にそうなる)

客観的評価なんて、できない。

 

疑問に思ったり、意味が分からない所があると、自分が未熟だからだと思い、何回も見直したり、実人生に於いて経験が足りないからだと、もっとしっかり生きようと思ったりする。

そういう意味で言えば、何回観ても楽しめるし、なんなら映画をみていない時間の実人生のハリもでる。(ある意味、コスパが良い。)

作品を、お客を楽しませるだけの「サービス」として消費するよりも、はるかに愉悦を享受できる。

 

だけど、もちろん、どんな作品にでもそういう姿勢で観られるわけではない。(「コマンドー」でそんな事できない。大好きだけれど)

きっと相性もある。私にとっては「庵野作品」だからできるのだ。(というか、「庵野作品」はそういうふうにしか見れない気がする。「謎」が多いから、こちら側が能動的に解釈しなければならない)

庵野秀明」は私にとっての数少ない師匠である。

 

師匠の作品を、(自称)弟子がどう解釈したのかは「シン・仮面ライダーを観た②」で書こうと思う。

 

 

           2023/03/24㈮

 

山下達郎「Softly」レヴュー

「空間的には救済も支援も理解も欠如した場にあっても、人は時間のうちに身を持すことによって希望と誇りを持って行き続けることができる。信仰とはこの『到来すべきもの』への全面的な信頼のことである。」

 

これは私が大変尊敬している、内田樹の最新刊「レヴィナスの時間論」の冒頭部の一節である。

くしくも、山下達郎の新譜「Softly」と同時に購入し、私は家に帰り「Softly」をかけながら、この本を開いた。

 

同じだと思った。山下達郎も内田先生も「到来すべきもの」への、「明るい未来」への、全面的信頼を表しているんだ、と思った。そして、そのような未来を導くために、誰のせいにするわけではなく(レヴィナスによると神さえも頼ってはいけないのだ)、ただもくもくと、この世に少しでも良きものをもたらすために、自分のやるべきことを行っているのだ。この世に「到来すべきもの」をもたらし来たすのは「私」の仕事である。他の誰の仕事でもない。

私はそのような「私」になりたい。

私はそのような「私」たちを「師匠」と呼び、尊敬の眼差しを向け続けて止まないのである。

 

2022/06/26

「『恋空』に犯された俺の心」

ケータイ小説的。」という本を借りて少し読んだところで、「恋空」という作品がキーになると書いてあるので、意を決して2007年の映画「恋空」を観てみた。(さすがに、原作の携帯小説を読む勇気はなかった。)


ところで私は今、この文章を汗だくの状態で書いている。着ていたTシャツは脱いで、上半身は裸だ。畳が汗で濡れている。
何故かと言うと、さきほど真夏の真っ昼間に、20分ほど海沿いを走ってきたからである。
何故走ったのかというと、私の中に入ってきた「邪気」を祓う為だ。
では、何処からの「邪気」かと言うと、もちろん先程観終えたばかりの、「恋空」からのである。20分ぐらい走った所で、「邪気」は少しは祓われた気がしたので、後は私が感じている事を、文章という形で外に出す行為をもって、お祓いとしたい。


もう、疲れているので、あらすじは書きません。
でも、とにかく、
女子高生がヤンキーに惚れて、セックスして、他のヤンキーに集団でレイプされて、それでも優しくしてくれる彼氏に再びカラダをゆだねて(図書館で)、子供ができて、彼氏の元カノに突き倒されて流産して、彼氏が自宅パーティーで他の女とキスしている所を目撃して、だけどそれでも好きだけど彼氏の方から一方的に別れを告げられ(実は彼は癌を患っており、彼女を悲しませたくないので病気の事は伏せて別れるように仕向けていた)、大学生と新たな恋に落ち、しかし元カレが癌にかかってもうすぐ死ぬ運命にあるのを知ったのがきっかけで再会し再び恋人同士になって、最期までの貴重で大切な時間を二人で共有し、最期はテレビ電話の向こう側にいる主人公の笑顔を見ながら彼氏はあの世へと旅立つ。
と、こう言う話だ。

結局あらすじを書いてしまった。
でも、これは「あらすじ」と言うよりも「箇条書き」に近いかな。
だけど、実際にこの映画を観た人は分かると思うけど、大体こんな話しだし、かつこれで内容理解は十分じゃないですか?

この「箇条書き」の隙間にある(隙間だらけ)、読み取るべき隠された「感情」とか「情緒」とか「奥行き」とかありませんよね?少なくとも私には、「箇条書き的情報」以外に読み取れるものはあまり無かったなぁ。
全てがストレートで、直接的に感動的か残酷で。




と、口では言うものの、告白するのは恥ずかしい限りではあるのだが、、、
実は、後半の「主人公が大学生と別れて、元の彼氏の所に行く場面(大学生は好きな女の幸せを思って別れる)」辺りから、「死んだら空になって君をずっと見守るよ、と彼氏が言う場面」、「TV電話で彼女の笑顔を見ながら息を引き取る最期のシーン」まで私はずっーと泣きっぱなしだった。ほんとに。
自分でも不思議だった。
自分の心は完全に冷めているにもかかわらず(だって面白くないんだもの)、自動的に目から涙が出てくるからである。

そう、この感覚である。
私は先程、「邪気」が自分の中に入ってきたと表現したけれど、私はこの映画に自分の大切にしている、「心」を犯された気がしていたのである。

冒頭に挙げた「ケータイ小説的。」を少し読んだところで、その時代の代表的な歌手であった「浜崎あゆみ」と「ケータイ小説」の関連性が出てくる。
ケータイ小説」は「浜崎あゆみの世界観」のある種の「コード」を共有して、初めて意味を成す可能性があるとの記述がある。浜崎あゆみの歌詞とケータイ小説の内容はかなりの部分重なり合っており、読者はその物語の内容から「浜崎あゆみの世界観」を連想し、その文の中に「浜崎あゆみの世界観」を挿入、補完するというのである。日常的に浜崎あゆみを聴いているという行為があって初めてケータイ小説に感情移入できる(度合いが高くなる)のである。

つまり、物語を構成する要素の中に、ある種の「コード」が存在し、それと同じ「コード」を既に共有している者は、その予め学習済みの「コード」を通して、その物語に共感し感動しやすくなるのだ。和歌の世界で言えば、「本歌取り」になるのだろうか。引用された元の歌を知っている人と知らない人ではこの詩から得られる奥深さの度合いが違ってくるだろう。

(次のカッコ内は多少ふざけているので、読み飛ばしてください。どうしても入れたくて後から付け足したのです→)(あるいは、やくざ映画で言えば、物語冒頭で木枯らしの吹くような寒いなか、刑務所の門からたった今、出所したばかりのやくざの若頭(鶴田浩二を想像してください)を、弟分達(小池朝雄室田日出男を想像してください)が少し離れた所から「アニキ〜!アニキ〜!」と嬉しそうに言いながらまるで子犬のようにじゃれてくるかのように走って来て、「アニキ!長い間お勤めご苦労様でした!いやァー、アニキが帰って来たからにはこれで安心でさァ!アニキがいない間に〇〇会の腐れ外道どもがのさばってきゃあがってんで、俺らのシマぁ荒らし回っとるんすよ」と言いながら、自ら着て暖めておいた上着を弟分が兄貴に羽織るシーンが出てきたら(要するに1971年の映画「博徒外人部隊」を想像してください)、この男達がどんな人間なのか冒頭なので全くわからないはずなのに、このような「『アニキ~!』と言いながら走ってくる男達を見たら感動せよコード」をこれまで観てきた色々な映画やテレビドラマを通して刷り込まれ、共有している我々はもうすでに胸がいっぱい!!!って経験ありますよね??えっ!?無い!?こりゃ失礼!)



この説でいくと、私は「浜崎あゆみの世界観コード」は共有してはいないと思うが(2、3曲耳にした事はあるだろうけど、別に好きでも嫌いでもない)、どうやら「恋空」後半の男達がみせた、「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」を共有しているらしい。(実際に私がそういう人間であるとは言っていない。良くも悪くも憧れてしまうだけである)

この「コード」が出てきて、私の心の中にある特定の「ボタン」が自動的に押されると、私はロボットにでもなったかのように、無条件に涙腺からだらだら塩水が流れるように出来ているらしい。たぶん、そういう風になるように社会からも、あるいは自ら進んで刷り込まれてきた。

今作のように、たとえどんなに薄っぺらい物語であると感じてしまっても、私はこの「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」に決して抗えないようだし、これからもそうだろうと思う。
この「抵抗の出来ない無力感」を「邪気が入ってきた」、「犯された」と表現したのである。このような「箇条書き的内容」の、文脈や物語の流れが大事にされていない内容で、この「女を、自分を犠牲にしてまでも大切に思う男はカッコいいコード」"のみ"で私を感動させて欲しくはなかったのである。(「浜崎あゆみコード」を共有すれば、私が薄っぺらいと思わざるを得ない内容に厚みを補完できるのかもしれないが、おそらく共有できない)
「冗談じゃない!俺はボタンを押せば無条件に感動するロボットじゃない!出来事と出来事のあいだの繋がりの文脈の中に生きてる、もがいてる人間だぞ!」
と思い、こんな猛烈に暑いさなか、海を横目に走って来たのである。
この「コード」の機能自体は文脈がキチンと繋がってさえいればとても良いものであると思うのであるが。


それと手短に、もう一つだけ。
このような「残酷」で「過酷」な物語を「リアル」である、と感じる少年少女たちがいる(いた)のかと思うと、胸がいたむ。

もっと優しい物語を「リアル」と感じられる社会を創るにはどうすれば良いのか。
「現実的層」でも、「物語的層」でも、今とは違う価値観を産み出さなければならない。



2021/07/29

「子育てEVANGELION説 後編」

前編では、作品の冒頭から既に碇ゲンドウの子育てがスタートしていた事を、何とか述べてみた。が、大変なのはこれからだ。
こんなややこしい物語の感想を、果たして自分如きが書ききれるのか(書いていいのか)。
「こんなのできっこないよ!」と言いたくなるが、それでも書ききれると信じて、進めてみよう。



「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」において、どうしても涙を抑えることが出来なかった場面が終盤に2つあった。
まずは、一つ目。
シンジ君がミサトさんに「ミサトさんの責任を半分、僕が背負うよ」と言う場面である。

これまでのシンジ君は、「僕ばっかエヴァに乗って、ミサトさん達大人は何もしないじゃないですか!」とか、「僕がエヴァに乗るとみんな不幸になるんだ。だから、もう乗りたくない」といった感じで、物事に関して概ね受動的であった。(でも、シンジ君はとても頑張っていたとは思う。何度も何度もひどい目に遭っていたのに、その都度、受動的ではあるにせよ、立ち上がって戦った。)
新劇場版:破においても、アスカが使徒に乗っ取られた時、殺す事も助ける事も自分では何も決めず、この状況に対して積極的に関わることをせずに、責任を取ろうとはしなかった。(「シン・エヴァ」で彼はそれに気付く)

ところが、この場面は、シンジ君が能動的に自ら「責任」を取ろうとする場面である。そして、さらに言えば、本来、自分の責任ではないはずの「他人の責任」を、彼が「自らの責任」として背負う場面である。

ミサトは大人であり、組織のトップである。そうであるならば、この状況を招いたのは、(もちろん全てではないが、)彼女である、と言っていい。故に彼女には責任がある。
シンジ君は子供であり、この状況がどうなっているのかも、コントロールすることもできない。ニャサードインパクトは彼が原因で起きたが、彼の意図ではない。あくまで誘導されただけである。故に彼に責任はない、と言っていい。
そもそも、この状況はシンジ君が物心つく前(あるいは産まれる前)から計画され、始まっていたものであるから、本来、彼に責任は全くない。
これまでのシンジ君なら、部屋の隅でうずくまって、心を閉ざして何もしないか、ミサトさんに「僕にはできないよ!」「エヴァに乗ったら僕も世界も傷つくだけだ」と言うか、ミサトさんに怒られて、何とかエヴァに乗るとかしたかもしれない。
しかし、彼は「他人の責任」を、「産まれる前から始まっていた状況」を、「僕が負います」と宣言して、自らの意思でエヴァに乗ったのである。ここで彼は、初めて「大人」になった。

この事から言えるのは、「大人」とは、「自らがが招いた状況」に責任を取る、という事よりも(それは当然であるので)、寧ろ、「他人が招いた状況」、「産まれる前から既に始まっていた状況」、つまり、本来は「自分の責任ではない状況」に対して、「私の責任です」と宣言して、痛みを引き受ける人間の事ではないか、と思われる。
リアルタイムで観ていた人は、26年間で初めて、シンジ君が「大人」の言動をするのを観たはずだ。その感慨、如何程のものであっただろうか。5年程の付き合いの私ですら、込み上げてくるものがあった。



では、この本来、「自分の責任ではない」状況を招いた張本人とは一体、誰なのか。
ここでようやく、彼の父、碇ゲンドウが出てくる。碇ゲンドウこそが、この状況をコントロールしている、「全責任者」である。
「大人」になったシンジ君は、「父のやった事の落とし前をつける」と宣言し、この状況を終わらせるべく、その「原因」である父に闘いを挑む。

この一連の闘いの後になされた、父と子のやり取りの場面が、もう一つの涙が抑えられなかった場面である。

ミサトさんが命を賭けて届けてくれた槍を、しっかり受け取ったシンジ君の姿を見て、父、碇ゲンドウが言うのである。
「他人の死を悼みながらも、その想いを受け取れるとは。シンジ、大人になったな」
素晴らしいセリフだと思う。(もう、私はここで、もう、、、私は、、)


しかし、ゲンドウはまさに、その事が出来なかったが故に、死んだ妻にもう一度会うために、わざわざこんな果てしの無い計画を人間を棄ててまでも行ってきたのである。
なので、観ている側は「お前が偉そうに言う事かい!どっちが子供だよ!」とツッコミを入れたくなった人もいたかもしれない(いないかもしれない)。

いずれにしても、「エヴァンゲリオン」という作品が完結する上で、この父と子のやり取り、父が我が子を「大人」と認めるシーンに多くの人が感激したに違いない。もの凄く良いシーンだったと思う。

と、まるでそろそろこの文章のまとめに入ったかのように書いたが、私の思考はここから暴走する。
私が本当に言いたかったのは以下に書く事である。
怒らないで聞いて欲しい。
それは、
実は、「父、碇ゲンドウは息子、碇シンジに『シンジ、大人になったな』と言いたくて仕方なかった」説である。
どういうことか。
つまり、ゲンドウは初めから(あるいは、どこかの地点で)、このセリフを言うためにあらゆる犠牲を払って「子育て」を行なってきたのではないか、とういことである。
私の説を(無理やり)通すならば、ゴルゴダオブジェクトでのゲンドウの告白は、嘘ではないが、本当の事でもない。彼は人類補完計画も、それによって妻に再び会うこと(のみ)も、本当は求めてはいない。電車の中でシンジ君に話しを聴いてもらって救われる前に、彼はもう既に救われていたはずである。
彼の電車内での告白は、シンジ君を「大人」にする一連の「儀式」の内の一つであったのではないか。

この物語においては、「父」=「世界」または「ルール」であったと言って良いと思う(少なくとも「神」になった後半では特に)。

シンジ君にとっては、「世界」の「ルール」は全く理解不能であり、それを知っており、無理矢理押し付けてくる「父」そのものも恐怖の対象であった。
でも、「大人」になったシンジ君が見た父の告白は、「自分と同じ、弱い姿」であった。「自分の弱さを、その弱さ故に認められず」、このような「世界」を造った、と言うのである。あまりにも「絶対的」で、恐怖の対象であった「世界」は「自分と同じ、弱い」が故に造られたことを知る。
ならば、その「世界」は「絶対的」なもので「揺るがす事ができないもの」では、決してない。
その「弱さ」を認める「強さ」があれば、「恐怖心」によって創る閉鎖された「世界」ではなく、
「能動的」に関われる、今とは異なった「世界」が創れるはずだ。
父はこの「世界」との関わり方を、息子に教える為にあえて「演技」をしたのではないか。
私にはそう思えてならないのである。
ゲンドウが、シンジ君をゴルゴダオブジェクトに誘導したように見えたし、「遠回りだ」と言いながらも「これも私に必要な儀式だ」と反対の事も言っていた。人類補完計画の遂行、そして妻に会うだけならば、この父と子のやり取りは必要のない儀式なのではないか。
ならば、ゲンドウの本当の目的は人類補完計画でも、妻との再会でもない。
彼が本当に望んでいたのは、「息子を大人にする」事、そして、親がやった事の責任を取ろうとする息子に代わって、父と母がそろって責任を果たす事(その瞬間に妻と再会できる事を望んでいた)。この事にあったのではないか。


物語の最後、姿も声も大人になったシンジ君は、
我々、観客側の世界の実際に存在する駅に居る。
甘い言葉でおちょくってきたマリに対して、「君こそ相変わらず可愛いよ」と初めて能動的に言い返す。そして、自ら彼女の手を引っ張って、駅から外へ出てゆく。
この現実の駅は「エヴァンゲリオン」というアニメ世界の電車から降りて来た駅であるはずだ(シンジ君、ゲンドウ、渚カヲルが乗っていた、あの電車から)。そこから、我々も一緒に降りて、彼らと共に今、我々が生きている「現実世界」に駆け出した。
このアニメを観た我々は、碇ゲンドウから(あるいは庵野秀明から)教わったように、我々が今居る「現実世界」が「絶対的に揺るがない世界」ではないというのを知っている(TVアニメ版の最終回でも言っていたように)。
ならば、能動的に「世界」と関わり、よりよい「世界」を創造しようじゃないか。ネオンジェネシス、「現実世界」。さぁ、行こう!






※セリフはうろ覚えなので、正確な文言ではありません。
また、現時点での自分が、どう感じたのかを、とにかく書いてみたかった文章なので、もしかすると整合性がなかったりするかもしれませんが、許してくださいね!
この作品はまたこれからも繰り返し観て、その都度感想が異なって良い作品だと思うので。

最後まで読んでくれてありがとうございます。


                2021/06/27

「子育てEVANGELION説 前編」

「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を観た。劇場で4回観た。
4回目は来場特典の小冊子が欲しくて観に行った。普段ならそんな事しないと思う。けど、今回に限ってはこの素晴らしい作品をリアルタイムで観たんだぞ、という自分に対しての確かな証が欲しくて。

エヴァンゲリオン」は、2016年の「シン・ゴジラ」の影響で観始めた。(話題の映画というだけで、何の前知識も無しに劇場で観てしまったシンゴジラは、本当に衝撃だった。その夜はゴジラに踏み潰される夢にうなされた。以来、とても好きな作品になっている)
なので、今回の「シン・エヴァ」以外はリアルタイムで観てない。
けれども、TVアニメ版から劇場版、新劇場版までの、これまでの作品はDVDで2、3回は観た。それ程までに好きな作品である。全くもって新参者のファンではあるが、勇気をもってここに、「現時点での自分にとって、エヴァをどういう風に捉えたのか」感想と考察のような物を書いてみたい。

まず予め、防衛線を張っておくが、私は「エヴァ」に関する一切の通説を知らない。本やネットでも調べたことはないし、身近に話せる人もいなかった。
従って、これから書くものが既にファンの間では当然の事であったり、あるいは全く有り得ないと言われる類のものかもしれない。
しかし、まぁ、それだからこそ書けるものが、もしかするとあるかも知れないので、どうか許して頂きたい。



それでは、本題。
私はこの複雑怪奇な一連の作品が、実はあまりにもありふれた、人間的なテーマを軸に構成されてできている物語であるとみた。
それは「子育て」である。
碇ゲンドウ(主人公の父)が碇シンジ(主人公)を、「大人」にすべく、ありとあらゆる「困難」を使って育て上げる「碇ゲンドウの子育て」物語として、である。

「そんな馬鹿な!」と思われるかも知れないが、思い出してみて欲しい。
TVアニメ版の第一話(あるいは新劇場版:序の冒頭)でのシンジ君と父、ゲンドウの初対面シーン。迫りくる使徒(敵)を前にして、シンジ君はゲンドウに「エヴァに乗れ、そして、あれと戦え」と言われる。「見たことも、聞いたこともないのに、いきなりこんなの乗れるわけないよ!できっこないよ!」と応えるシンジ君に対して、ゲンドウは無理矢理に乗せるわけでもなく、「できないのなら、説明を受けろ」と返す、あの場面である。
状況は確かに異常ではあるが、「父が子に何かを教える」という事で言えば、ある意味「普通」ではないか。
「子供」はまだ世界がどのように成り立っているかを知らず、またそれを受け入れないが故に「子供」なのである。だから、「大人」がそれを教えなければならない。
ゲンドウはこの組織のトップであるから部下に命ずれば、ひ弱なシンジ君を無理やり乗せる事は造作もないはずだ。しかし、彼は「説明する」と言っているし、「イヤなら帰れ!」と言い方はキツイが、あくまでシンジ君の意思に委ねている。
ただのロボットアニメなら、力の差が歴然とあるこの父と子の「乗れ」、「乗りたくない」のやり取りはいらないはずだ。さっさと力付くで乗せればいいのだから。
しかし、それでも「乗りたくない、できない」と繰り返すシンジ君に対して、父が次に繰り出すのが、綾波レイ(母のコピー)の傷ついた姿である。お前が乗らないなら、もう既に傷だらけの担架にのせられたレイを代わりにエヴァに乗せると父は言うのである。
観てる最中は状況に圧倒されて、納得させられていたが、あんな傷だらけの状態で最初から乗れる訳ないじゃないか。今、思うとあれも父の(そして母の)、子に対する困難な世界へ踏み出すための誘導=「子育て」であったのではないか。
結局、使徒の攻撃によって、さらに傷つき血だらけになったレイ(≒母)を見て、ようやくシンジ君は自分の意思で、エヴァに乗る事を決心する。否、自分で決心するように父(と母)に仕向けられる。
やっと決心してエヴァに乗ったものの、いきなり困難な世界(この場合、エヴァの操縦と、敵である使徒)に直面するのは、いくらなんでも流石に辛すぎるものがあるので、「エヴァ(=母)の暴走(=手助け)」という形をとって、この状況を乗り切る。シンジ君は歩く事しかできなかったが(それでも驚いたリツコの「歩いた!」は印象的)、親としては、初めは一、二歩、歩ければそれでだけで十分である。

事程左様に、実はこの物語は冒頭からすでに「子育て」全開に始まっていたと思われるのである。

思ったより長くなりそうなので、前編と後編に分けて、後編では「シン・エヴァンゲリオン」の内容を中心に論じてみたい。
少し疲れたから、後編は後日に書きます!

                2021/06/24