「ありがとう、全ての『おいしい給食』」

2020年の映画「おいしい給食 Final Battle」を観た。テレビドラマ版も大好きだった。この私は、馬鹿げているはずのこの物語に不覚にも、何度も涙を流した。

自称、給食を食べるために学校に来ていると言っても過言ではない(本当に言い過ぎではない)、市原隼人演ずる中学校教師、甘利田(あまりだ)先生。彼の給食に対する愛は並大抵のものではない。彼にとっての人生最大の至福、それは給食だ。彼が給食を食べる時、その姿は歓びに満ち満ちている。まるでダンスだ。その歓喜の姿の内で紡がれる言葉の羅列を音楽とするならば、観ている我々はその音楽の軽快、かつ甘美なリズムに乗って彼とのステップに踊り狂い、彼の感じているであろう大いなる歓びを追体験するのである。それ程までに彼は給食を愛している(市原隼人の素晴らしく大袈裟な演技がそれを可能にする)。

が、しかし、そんな幸福な時間は彼が担当しているクラスの男子生徒によって、いとも簡単に崩されていく。そう、神野ゴウである。
彼も甘利田先生に負けず劣らず給食をこよなく愛している。甘利田先生にとっては目の上のたんこぶ、いまいましい宿敵だ。
彼が示す給食への愛は、「アレンジ」という手法で表現される。
彼は独自の天才的着眼により、これまではそれぞれが別々に食すべきものであり、関連性の薄かったはずの食品同士を組み合わせる。そして、そこに新たな調和と世界観を打ち立てるのだ。(第一話では、鯨の竜田揚げをコッペパンの中に挟み、前日の給食に出されたはずのタルタルソースをその上に豪快にかけ、口を大きく開けて、タルタルソースを口のまわりに付けながら、旨そうに頬張る。)
言うなれば、夜空に広がる無数の星と星との間に線を引き入れ、巨大なハクチョウ座を出現せしめるが如く、この巧みなアレンジによって新たな神話と世界が創造される。この世界創造を目撃してしまった後では、ハクチョウ座以外では、もはやこの夜空の有り様を表す事は可なわなくなるように、この食べ方以外には有り得ない程の衝撃なのである(少なくとも甘利田先生にとっては)。
甘利田先生は打ちひしがれる。教師としては本来、そのような、あるべき秩序を乱しかねない変則的な食べ方を戒めなければならない。だが、あまりにも、そう、あまりにも、「うまそげ(美味しそう)」なのである。
「給食をおいしく食べる」という事が、何よりも「給食道」を貫く道であるならば、神野ゴウはその道理をまさに体現している。その彼を、甘利田先生は同じ「給食道」を志す者として、否定する事はできない。
彼は教師と生徒という立場の違いがあるにも関わらず、神野ゴウを同じ道を極めんとする「同志」として扱う。普段は教師の威厳を保つためにわりと威張っており、特に神野に対しては大人気ない敵意がむき出しにされるが、こと給食という戦場に限って言えば、相手の優れた点をしっかり認め、自分の軽率さと愚かさをしっかり直視する。そして毎回、痛烈に悔しがりながらも、素直に負けを認めるのである。その潔さは、道を極めんとする者の姿勢の現れであり、観ている我々はその精神の有り様に心打たれる。(時々、教師権力を使って事前に神野の給食アレンジの妨害を企てたりもする。が、すべて裏目に出る。その事は棚に上げておこう)

しかし、私はここでは涙しない。
この作品の奥深さはここからである。
甘利田先生と神野ゴウは「給食」においては、「対等」であるが、神野はまだ中学一年生である。
何かを「貫こう」とすると、様々な困難が生じてくる。予期せぬ出来事で傷ついたり、大人の事情で彼の道が塞がってしまう事もある。
そんな時、甘利田先生は彼に「これが現実だ。受け入れろ」と厳しく言う。
しかし、神野はそれでも必死に諦めない。
そんな彼に対して、現実はあまりにも容赦なく、剥き出しなまま襲いかかってくる。しかし、そこで向かってくる火の粉を一身に受け、彼を守る為に身を呈するのは、やっぱり甘利田先生なのである。
彼はこの時になってはじめて、神野を「子供扱い」する。「子供」を守るのが「大人」の役目なんだと、前に出て必死に彼をかばう。
この時、我々は「先生」を見る。私はこの「大人」に涙するのである。

神野は給食を食べることを全身全霊で楽しんでいる。その「全身全霊」をもってするものが奪われるならば、それは「生きている」のを否定される事と同義である。それを、現実的な困難はありながらも、何とか後続の世代の為に守ってやるのが「大人」である。その意味では甘利田は(普段は馬鹿らしいが)紛れもなく「先生」であり、「大人」である。

この作品は「給食バトル」に見せかけてあるが、一枚皮を剥がせば別のものが見えてくる。「子供」が何かの行為をもって「全身全霊」をあげて生きようとするのを、「全身全霊」もって見守り、そして、かばう「大人」の姿である。

そういう「大人」を、我々は久しく見ていない。この作品の設定が1984年なのは、その事が理由にあるのかもしれない。

                2021/06/17

「勝手にふるえてろ!電車男!」

2005年の映画「電車男」を観た。この映画によって「オタク」に市民権(?)が得られたと言われているようだが、私はオタク文化とかネット文化に物凄く疎い。
しかし、今回のような「人が恋をして自分の殻を破っていく」というのは普遍的なテーマであり、私にも理解できた。そして、それを「オタク」がやるというのが、このありふれたテーマをよりドラマティックにさせているようだ。

この映画を観て分かったことは、「オタク」というのは、「何かに異常に詳しい人」の事ではなくて、どうやら(繊細で、傷つくのを恐れるあまり)「自分の殻を破れない人」のことを言うようだ。よく、「アニメオタク」とか「ゲームオタク」とか言うが、それはその分野に異常に詳しいからそう呼ばれるのではなく、その分野(セカイ)から出ようとしない人の事であるみたいだ。(その分野の中から出ないで、同じ所を行ったり来たりしているのだから、詳しくなるのは当たり前だ)
つまり、この映画の魅力は「自分のセカイにとどまって、殻を破れない人」とされているはずの「オタク」が、「他者」に恋をすることで、自分の(普通の人よりも、より強固な)「セカイを壊そう」とする行為にあったと思う。
私も観ているあいだ、掲示板サイトの投稿者になったつもりで、彼の事をそれなりに応援できたし、少しは楽しんで観ることもできた。
が、どうしても(またもや、批判するのか、、、「性格悪いなぁ」と思う。最初から、「さぁ〜悪口言うぞ〜」という気持ちでは、もちろん観てないんだけれども、、、)中谷美紀演ずる、ヒロイン、エルメスに対して違和感がぬぐえなかった。主人公に対する態度があまりにも理想的で都合が良過ぎるのだ。これでは「他者」ではなく、自らが創り上げた、都合の良い「妄想の人物」にしか見えないではないか。結局、自分の妄想の内部で恋をしているようにしか見えなかったのである。

その事を踏まえた上で、私からの提案がある。
それは、物語の最終盤、主人公はボロボロになりながらも勇気を出して、ヒロインに「好きです。あなたとずっと一緒にいたい。」と告白し、ヒロインも「私も好きです。あなたの事が。ずっと一緒にいましょう」とそれに応じる、そのシーンの一部変更である。 

何故、変更したいかと言うと、私はそこで不意にある映画を思い出したからである。
2017年の映画「勝手にふるえてろ」である。
この映画の主人公は20代の会社員女性(だったと思う)であるが、同じくオタクとして描かれていた。この主人公が同窓会か何かで、ずっと想い続けていた同級生(しかし、卒業以来一度も会っていない)と、たまたま二人っきりになり、共通の話題で意気投合するのであるが、その憧れの彼に唐突に言われるのである。「ところで、きみ、名前なんだっけ?」と。
彼女は何年もの間、彼との学生時代に交わした言葉を何度も何度も頭の中で反芻し、自分の妄想内部において彼と沢山の会話を交わしてきたのだ。それを生き甲斐に生きてきた。そうであるにも関わらず、彼にとって主人公は名前の無い、ただの「同級生」の一人だったのである。
そこから彼女のミュージカルのように描写されていた楽しげな日常(彼女の妄想内部のセカイ)は一気に崩壊し、なんの味気もない現実世界の描写に転換する。(それまでの釣り人、駅員さん、コンビニの店員との親しげな交流は、全てが彼女の妄想で、後半はそれらの人々は彼女に見向きもせず、実は彼女の存在自体を認識していなかった事が明らかになる。)それを思い出してしまった。名前も分からないのなら、恋なんて、始まるわけはないのだ。(一目惚れならあり得るが、必ずその人の名前を知ろうとするはずだ)


そう、「電車男」での恋人たちは二人共、一度も名前を呼び合っていないのである。私はそこで、「この人達、本当は名前なんていうの?」という疑問を持ってしまったのである。彼らが相手を呼ぶ時は互いに「あなた」である。そして、掲示板サイトの投稿者も観ている我々も、主人公が「電車男」で、ヒロインが「エルメス」という掲示板サイト上での、仮の名前しか知らない。エルメスも自分が掲示板サイトでそう呼ばれている事も、今、目の前にいる男性が電車男と呼ばれているのも知らないはずである。
つまり、彼らも我々も「名前」を知らないのだ。
何故、私が「勝手にふるえてろ」をその告白の場面で思い出したかと言うと、ヒロインが「私も、好きです」と言った後に、少しの間があり「あなたの事が」と言うのだが、なんとなく、「あなた」と言うのが、言いにくそうで、不自然に聞こえたのである。
普通、こんな大事な愛の告白の場面では、「あなた」という誰にでも当てはまるような言葉ではなく、相手の名前をしっかり呼ぶはずである。つまり、「名前」とは、「他の誰でもない『あなた』」を呼ぶときに使うものだと思う。だとするならば、愛の告白においては、お互いにその人の「名前」が呼ばれるのが適当であるはずである。
だから、この告白の場面での、「私も、好きです」「あなたの事が」と言った後に、本当に口にされるべき次の言葉は、主人公の妄想セカイを叩き壊す言葉として、「ところで、あなたの名前は、なんですか?」である。

実際の物語は、愛の告白の成就と、接吻により、二人の周りにあるビルのガラス窓が、掲示板サイトの画面のようになって、オタク言葉での祝福の言葉が溢れ出す、という演出で終わる。

が、「ところで、あなたの名前は、なんですか?」というセリフが、もしも言われたなら、掲示板サイト画面を模した、ビルのガラスから流れてくる文字は「ワロス、おまいのただの妄想www」(オタク言葉、あってるかな?)等の誹謗中傷の類いではなかっただろうか?
そこで、主人公は目を覚まし、掲示板サイトを開いたままパソコンの前で、寝ていた事に気づいて、これが夢であったのを知る、というオチでどうだろうか。

と、意地悪な事を述べたが、この映画で、自分の殻を破って外の世界に一歩踏み出そうとする勇気をもらった人も大勢いると思う。映画を観て、そういう気持ちにさせてくれるなら、(その人にとっては)素晴らしい作品であるし、だからこそヒットしたのだと思う。
でも、何度も言うが、現実にはエルメスのように理想化された人は(たぶん)いないだろうし、そうであるならば、実際にはどうしても「勝手にふるえてろ」的な展開になってしまうと思う。
だけれども、「勝手にふるえてろ」的な、主人公が絶望するような展開にならないと、本当に「殻を破る」事はできないのかもしれない。
上記の筋書きで、「勝手にふるえてろ電車男!この、妄想野郎!」という題名の映画を制作することを提案する。(冗談です。それに売れないと思う)
               2021.6.15


ということを、頑張って書いた後で、この物語は、実際の掲示板サイトの書き込み「だけ」を元にした物語であるのを知った。(私は掲示板サイトだけではなく、実際の本人達へのインタビューもなされて制作された映画であると思い込んでいた。)それだけが情報源であるならば、掲示板内で本名が明かされているはずはなく、映画版でも「電車男」と「エルメス」という呼び名で、通すしかないのもわかる。そして、本当の「名前」をその本人たち同士でさえも呼び合わずに、「あなた」としか言えなかったのも、納得できた。
つまり、私が書いたのものはそもそも、前提が間違えており、これこそ妄想の域を出なものであった。この文章を削除するのは簡単な事であるが、読者に「愚かな奴だ」と笑ってもらう為にも、ここに残しておきたい。(偉そうに言ってやがらぁ。ワロスwww間違えたくせにwww)

「駄作の中心で、whyをさけぶ」

2004年の映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を観た。
とにかく。
面白くない。面白くないのだ。
一体、どうして、こんなもの作るんだ。一流の俳優陣を集め、それなりにお金も時間もかけて、こんなものを一所懸命に作りあげるなんて、どうかしてる。一体どうして?

と、腸、煮えくり返る思いであるが(しょっちゅう、腸煮えくり返る奴である)、その疑問への回答はいたってシンプルであろう。
それは、「売れるから。」である。(実際に社会現象と言われるほどに売れた)
では、どういうものが売れるのか、と言うと、多くの人々の「欲望に応えられるもの」がそうであろう。
では、その「欲望」とはどんなものであったか。悪口ばかり言ってもしょうがないので、この映画に表れているであろう、「欲望」を考えてみたい。(そして、その上で悪口を言いたい。)


この物語は現在から過去を回想し、現在と過去の2つの時間軸を行き来する構造になっている。
現在は、もう大人になっている主人公の朔太郎(さくたろう、愛称はサク、大沢たかおが演じている)が、あるきっかけで、高校生時代の恋人との思い出のカセットテープ(肉声による交換日記のようなもの)の存在を思い出し、それを聴きながら思い出の場所を巡る時間軸と、その思い出される過去の場面の時間軸(恋人との出合い、楽しい日々、そして死別)、これらの2つの時間軸での構成である。
現在の朔太郎は、リツコ(柴咲コウ)ともうすぐ結婚する予定であるが、そのカセットテープがきっかけで、忘れていたはずの高校生時代の恋人を、実は自分が心の底では忘れていないということに気がつく。そして、その過去の出来事と向き合うことによって、前に進んで行くという話しである。


私がここで指摘したいのは、高校生時代の恋人である広瀬亜紀(長澤まさみ)が何故、死ななくてはならないかということである。もっと過激に言えば、誰が彼女を殺したか、である。

もちろん、設定上は彼女の死因は白血病によるものである。誰も彼女を殺してはいない。しかし、それは見せかけに過ぎない。
彼女が死ななければならない本当の理由は、高校生時代の恋の思い出を「美しい物語」で終わらせるためにある。
どういうことか。

この映画はあまりにも「美しい」。この映画をこの映画たらしめているのは、過去の完璧なまでの「美しさ」である。我々はこの「美しい思い出」を大人になった主人公が、過去を振り返るという目線に重ねながら鑑賞する。

そして、この「過去の美しさ」をもたらしているのは、恋人の亜紀である。彼女の特徴は「勉強ができるし、スポーツ万能だし、人気があって」と言及されており、他の女子とは少し雰囲気が違い、凛としている感じで描写されている。
朔太郎(高校時代は森山未來が演じている)とのやり取りを見ても、ほぼ素直で明るく、積極的であり、まるで非の打ち所がない。それを長澤まさみが演じるのだから、完璧である。
そう、完璧なのである。しかし、この完璧なまでの美しさは、あらゆるものがそうであるように、時間の経過による劣化を免れることはできないはずだ。
ただ一つの方法を除いては。
それは時間の強制停止である、「死」である。
彼女が白血病になり、これから死に向かうという状況になれば、恋愛における互いの欲望の不一致による軋轢、そしてその修復(それらはどうしても見苦しくなることが多いだろう。けっして美しくはない)の過程は必要はなくなってくる。我々はひたすら互いのことを思いやり、死にゆく彼女と、どうすることもできない主人公に同情すればよいのである。

そして、さらに言えば、亜紀はそもそも朔太郎の主観的な理想でしかなく、自律した登場人物として在るのではない。上述したように、彼女はあくまで、「理想的な女性」としてあるのみであり、これは物語を進めるうえでの「舞台装置」でしかない。
つまり、彼女は本当は生きてる人間としては扱われていないのである。もともと死んでいる登場人物を勝手に殺しても問題ない。(なんの前触れもなく白血病になったのはその為である。)


では、先程の問いに戻ろう。誰が殺したか。
これには三つの層がある。


まず、第一の層は物語の層である。
ここではは恋愛の美しさを保とうとして、主観的理想のみでしか彼女を見られなかった、主人公、朔太郎が当てはまる。我々が観ていたのは彼の目(記憶)を通しての彼女である。
彼女を他者(自分の理解も共感も絶した存在)として見ようとはしていなかった。それは彼女の中にも固有の魂があるはずだ、という前提が無いことである。
魂の否定をするということは、生きていない(殺している)と言っているのと同じ事である。
そして、彼女が白血病で死ぬ事で、朔太郎の「美しい思い出」は完成する。
現実での若い時代の恋愛の多くは、自分の主観の範囲内でしか相手を捉えておらず、それはたいてい、ぼろぼろの破局をもたらす。その事で言うなら、朔太郎も特別ではないが、彼女が死ぬ事によって、そのぼろぼろになるような破局が回避でき、「美しい」ままで終われるのである。
「美しさ」を保つという面で、朔太郎が亜紀を殺したと言える。

第二の層。
第一の層でも述べたように、亜紀は「朔太郎の理想」として設定されていた。では、その設定をしたのが次の殺人者である。それはもちろん製作者である。
製作者はおそらく、「高校時代に恋人を亡くした人物が、それを大人になって回想する」という大枠をはじめから持っていたのではないか。その大枠のパーツとして、亜紀は組み込まれた。
はじめから、物語の部品としてあったのなら、それを取り付けるのも外す(殺す)のも製作者の自由である。


第三の層。
これは少しややこしい。
第二の層の製作者が、第一の層で述べた「美しい物語」を、現代の大衆はおそらく「欲望」しているだろうと見立てた。つまり、製作者はこういう物語がウケると見込んで、それにそって作った。そして、実際、その見立ては大当たりであった。
そう、第三の層での殺人者は、我々「大衆」である。
これは私の狭い経験においての、今の所での確信であるが(こんな確信、早く撤回したい)、我々「大衆」は、本当は他者の話しなんか全然聞きたくないし、自分の思い通りの反応をしないものに対しては、存在を無視したがっている。あらゆるものを自分の主観の範囲内に回収したいし、それ以外の事柄は無意味なものとして唾棄したい、という「欲望」があるのではないか。
この確信が、仮に正しいとするならば、今回のこの映画もこの大衆の「欲望」にそって作られている。
恋人も自分の主観の範囲内にいるときは美しくあるが、その幻想は時間と共に消滅する。その幻想が消滅するくらいなら、(象徴的に)殺してしまえ。そして、その主観の範囲内にいた時の美しい思い出を、大人になって思い出そうじゃあないか、と。
恐ろしい事である。しかし、確かに魅惑的である。だからこその社会現象なのだろう。


最後に悪口を言おうと思っていたが、だんだん、ゲンナリしてきた。こんな見掛け倒しの映画が流行っていたなんて、どうかしてるよ。

そう言えば、平井堅が歌うこの映画の主題歌の歌詞で、「瞳を閉じて、君を描くよ、それしか出来ない」というのは、死んだ亜紀を思うのではなく、高校時代の朔太郎の「自分の主観の範囲内でしか君を描けない」ということの表れだったのではないだろうか。
なんだかんだと、やっぱり悪口言ってるじゃないか。
ともかく。


17年前の映画ではあるが、人々の欲望は今もあまり変わっていないと思われる。


2021.6.13

「『地味』で『普通』な物語」

現在放送中のNHKの朝ドラ「おかえりモネ」が、かなり良い。ビシビシと私の心を打ち、毎日励まされている。自分にとって、とても大切な作品になりそうなので、まだ18話しか放送されていない段階だけれども、ここに感謝の気持ちを込めながら、私の感じた事を述べてみたい。


と、言うほどに、私は勝手に盛り上がっているのであるが、どうも私の周辺の評価が芳しくない。(と言っても四人の意見しか聞いていないが。)
聞いてみると、「地味」とか「何の話なのかよくわからない」ということなのである。
私の母について言えば、朝ドラは毎回観ているらしいのだが、今回は少し観ただけで「これ、面白くない。どうせこのあとも面白くならなさそう」と感じたらしく、観るのを止めている程である。


一体、私の興奮度との、このギャップは何なのか。
しかし、少し考えてみると、私がこんなに興奮している理由と、彼らが「面白くない」と言っている理由はどうも同一のものであるようだ。
それはこの作品が、とても(ある意味で)「地味」で、「普通」だから、である。

どういうことなのか説明しよう。

舞台は2014年(震災から3年後)、主人公は清原果耶演ずる、19歳(だったっけ?)の永浦百音(ももね)、通称モネは、故郷の宮城県気仙沼市の離島、亀島を出て、少し離れた登米市林業協会に就職する(が、本当にこの仕事がやりたくて就職したわけではなく、とにかく島を出たいという理由から)。
そこで、人と交流したり、仕事を通じて自然と関わりを持ち、興味をいだいていく、というのが今の所のテーマのようなのだが、その関わり方があまりにも根本的過ぎて「地味」で、「普通」なのである。
特に重視して描かれているのが、主人公と自然との関わり(あるいは自然としっかり関わって生きている人たちとの関わり)である。
モネ以外の主要な人物の多くは大人であるが、彼らは当たり前のように自然のことに詳しい。
例えば、山の上の雲の動き方を見て、明日雨になるとか、夕方に、この位置で火を燃やすと、海と陸との温度差の関係で、これから風向きが変わるからよくない、などなど。このようなエピソードがほぼ毎話入ってくる。
モネはこのような関わりによって毎回、その事を知っている人にも、当の自然現象自体にも感心するのである。が、いかんせん、あくまで当たり前の日常生活の中での発見であるため、大げさに感心してみせたりはしない。しかし、モネにとっては、だからこそ本当に大事な繋がりであり、一つ一つ、自然に対して、(そして「世界」に対して)繋がりを回復している過程であるので(なぜ、「回復」という言葉を使っているのかはあとで説明する)、心の奥では感激していないわけはない。その微妙な心の動き、歓びといったものが清原果耶という稀有な役者によって表現されている。(彼女の素晴らしいい所は、「沈黙」や、セリフとセリフの「間」、あるいは「言い淀み」や「ためらう仕草」によって何かを表現できる、ということだと思う。こういってよければ、「黙れる」役者である。)

では、何故、モネはそこまで自然に対して関わりを持ちたがるか。逆説的だが、それはある経験によって、「自然(あるいは世界)との繋がりの断絶」があるからである。
その経験とはもちろん2011年、3月の震災のことである。
当時、彼女はまだ中学生で、その日は高校の音楽科試験を受けた合否の結果を(モネは父の影響もあり、サックス吹きで、音楽が大好きであった)、島を離れて仙台に見に行っていたのである。
結果は不合格で、付き添っていた父がモネを励まそうと、仙台のジャズ喫茶に昼食に連れて行く。早く帰らないと島で待っている吹奏楽部の仲間との最後の練習に間に合わないので、食事を終えると帰ろうとするのであるが、帰り際に始まったジャズの演奏におもわず心打たれたモネは、そのまま演奏を見続けてしまう。
そして、そこで、震災に遭う。
震災直後の故郷である亀島は、海に流れ出した石油に火が付き(彼女は、島の周りが炎に包まれているのを、仙台の高台から見る)、なかなか船が出せない状況で、仙台と亀島はわずか200メートル程しか離れていないにも関わらず、モネが島に戻れたのは数日後であった(それでも早い方かもしれない)。
島に戻ったモネは、家族の安否を確認をした後、吹奏楽の最後の練習を一緒にするはずだった仲間のもとへ急いで駆けつける。彼らは幸いみな無事で、避難所である学校の給食室で避難民の為に作業をしていた。心底安堵するモネに対し、吹奏楽部の仲間(とても仲の良い同級生4人。モネが登米市林業協会に就職した後もとても仲が良い)は、突然現れる友人に、何も言葉を発しない(発せない)まま、ただ彼女を見つめる。その視線は、モネにとって、震災の時、その場にいなかった自分を責めているように感じられたであろう(実際に、この時、それぞれがどう思ったのかは、現時点ではまだ明らかになっていない)。観ている私にとっても痛々しいと感じる視線で、まるで「今さら、何しに来たの」と言われているような気がした。もちろん、仲間たちはそんな事思ってはいない、とは思う。彼らのその後のモネとの接し方を見ても、その時は、震災のせいで彼ら自身傷ついて、茫然自失となっていたのだろうと思われる。でも、モネの目には、自分が震災のその時、練習の時間があるにもかかわらず、ジャズを聴いていて島に帰るのが遅れたために、その場所で一緒に苦しむことが出来なかった、そのせいで、仲間から拒絶されたと感じたに違いない(実際に、現時点で、音楽から距離をとっているのもそれが理由であろう)。そう思われる描写であった。もちろん誰も悪くないのだが、だからこそ、とても辛いシーンであった。


モネはこの時、「地震」という、圧倒的な暴力によって、2つの「断絶」を経験したと思われる。
まず一つは先程述べた、一緒に苦しむということを共有できなかった「仲間」との、「断絶」。
そしてもう一つは、これまで生活の一部だったはずの「自然」との「断絶」。
この時、彼女はこの圧倒的で暴力的な「自然」を憎まずにはいられなかったであろう。
しかし、彼女の家は牡蠣の養殖を生業としていて、自然は生活に欠かせないものであり、彼女自身、島の美しい海に囲まれて、そこで育って生きてきた。完全には憎めないはずだ。それに、自然が悪いわけでもないというのも知っていると思われる。
だからこそ一度は断絶した、「生活の一部」としての「自然」との繋がりを回復するべく、彼女は自然現象に興味をもつに至っている。
「生きていく」為に、これらの「自然現象」を知ることは、モネの周辺の大人たちがそうであるように、本来、(都会で生活している人以外は)生活する上で「当たり前」のことで、「普通」であり、同時に必須の事柄である。
彼女はそれを知る事で、圧倒的で暴力的な側面もある自然に対して、もう一度、親しみの感覚を抱くべく、今後も、さらに奮闘していくと思われる。
しかし、その「奮闘」ぶりはあくまで、「当たり前の生活をする」、という目的があるために、あまりエンターテイメント的に派手に演出はされずに、地味に、しかし、愛情深く描かれなくてはならない。
その事に誠実である為に、もしかすると、「面白くない」と言われるかもしれないが、「面白くない」「普通」の生活は、とてつもなく大切であり、それを壊されてしまった、あの震災の後では、なおさらそれを実感せざるを得ないのではないか。

この文章で述べてきた事は、あくまで、まだ18話までの感想ではあるが、物語の大枠は捉えられていると思う。


(そして、話しは、いきなり飛ぶが)新海誠の「君の名は。」を代表とする「セカイ系」という、セカイがものすごい狭い、困難な世界からの逃避先として、ジブンのセカイの中にしかいられないものが流行る一方で、この作品のように、2011年の大震災という、どうしようもなかったもの(原発事故は除いて)と向き合おうとし、自然とも他人とも何とか関わっていこうとする物語があることに、とても勇気づけられ、明るい気持ちになっている。
さらに個人的なことを言うと、このように自分の心に思うことを、他人に伝えるべく文章を書き始めたのも、実はこの「おかえりモネ」の影響がある。
感謝の気持ちもあり、この「地味」な作品を一人でも多くの人に見てもらいたい、という気持ちで書いた。


2021.6.9

「2005年、セカイ系、イッポ手前」

2005年の映画「NANA」を観た。
「PとJK」の次の、「おそらく共感できないであろう映画」であろうと思って観た2本目である。
予想に反して、良くできた作品だと思ったし(失礼!)、楽しんで観ることができた。心を打たれ共鳴したか?と聞かれると、そうではないのだけれど、それは好みの問題で作品の良し悪しではないから、仕方ない。

だけれども、観た後で自分の中に、何かよくわからないシコリみたいなものが残ったので、この文書を書くことによって、それが何であるのか自分で整理してみたい。

おそらく、このシコリの原因は、登場人物達の「世界」の狭さにあると思われる。


この映画は、ある吹雪の夜に、たまたま電車で隣り合い、同じ年齢、同じ名前を持った、二人の女性の成長譚である。


主人公は、二人の「ナナ」である。一人は勝ち気でサバサバした性格で、ロックバンドのボーカルをやっている中島美嘉演じるナナ。
もう一人は彼氏を追いかけて上京してきたばかりの、いかにも女のコって感じの人懐っこい、でも人によってはウザったがられてしまう宮崎あおい演じるナナ(もう一人のナナに、犬みたいにいつもくっついいているので、ハチと呼ばれている)。この二人は同じ二十歳である。

まず、「世界」の狭さを感じるのは、登場人物たちの年齢。

普通、子供が大人に成長しようとする物語は、乗り越えるべき困難な壁として、「社会」や「大人」が対峙してくる。そして、それを同じようにすでに通過した、鳥瞰的な立場で優しく、かつ厳しく見守る成熟した「大人」が側にいるはずである。(そして、その乗り越える為に足掻いているのを、次は私達も同じように頑張ろう、と感じる下の世代がいる場合が多い。)つまり、年齢の幅が広く、この世代間の交流による、社会との関わりによって、人は成長するものである(と思う)。
この「年齢の幅」、「世代間の交流」が無いのである。

主人公の二人は前述の通り、二十歳。この二人の周辺のバンドマン達も、見た感じ同じ世代である。(弁護士ドラマーが唯一、少し俯瞰的に物事を見てる感じはある。)
宮崎あおいナナの方は、勤務先の「嫌な上司と女先輩」や、田舎に帰ると「優しいお母さん」と「あまりさえないお父さん(言及だけで、登場はしない)」はいるが、彼らは単なるステレオタイプとして出てくるので印象は薄く、乗り越えるべき壁としては機能していない。
そして、特筆すべきは、もう一人の中島美嘉ナナの方である。彼女はもともと父がおらず、幼い頃は母と二人だったが、その母も彼女を捨て、蒸発し、祖母によって育てられる。その後、その祖母も彼女がバンドを始める直前に亡くなった。(彼女の体型はとても華奢で、服装もメイクもダークな感じ。「幸せイッパイ!」と言うふうにはとても見えない。)
そして、もう一人の重要人物である、彼女の恋人(一緒にバンドを組んでいたが、東京のメジャーのバンドに引き抜かれ、今は人気ギターリスト)である松田龍平演ずるレンも事情は忘れたが、両親がおらず、ずっと一人で生きてきた。この二人は上京するまで、街の外れの貸倉庫(!)(内装、めちゃくちゃオシャレ)で同棲していた。
この二人には、サポートしてくれる親も先輩も、登場しない。あるのは親たちに見捨てられたという、不条理な「現実」だけである。
その「現実」に(幸せイッパイ!的な)宮崎あおいナナが現れ、この厳しく硬い現実を、お互いにやわらげ合い、なんとか前に進んでいくというお話しである。
前には進むのだけれども、この「世代間の交流」が無いので、どうしても閉塞感を感じてしまうのである。同世代の価値観だけで生きざるを得ず、「価値観の転換」や、「主体の変革」みたいなものは(あまり)起きてないように思われる。



あと、もう一つ、どうしても気になってしまったのがあった。
それは主人公二人のそれぞれのモノローグ(心の内の独白、ひとり語り)である。
宮崎あおいナナの場合は、中島美嘉ナナを想い、気遣うモノローグ。
中島美嘉ナナの場合は、恋人との出合いと別れの回想場面のモノローグ。
これがどうしても私の身体に合わなかったのだ。
あまり良い言い方ではないが、とても気持ちが悪いのである。悪寒がしたほどである。
これはその事によって、作品の質が下がるとか、そういう批判をしているのではなく、考えてみると、単に私がこういう表現を嫌う個人的な理由があるのである。

その「理由」というのが、新海誠の2016年のアニメ映画「君の名は。」である。
彼の映画のほとんどは主人公(ぼく)と、ヒロイン(きみ)を中心とした、小さな関係性の「セカイ」で構成されている映画である。故に「セカイ系」と呼ばれており、感情表現がモノローグによって主に成り立っている。(私の友人に感傷的な感情描写のモノローグを使って、新海誠の映画のマネをする人がいる)
感情表現がモノローグだから、相手にその感情が伝わるはずがないのに、何故かお互いに心が通じ合うという、「他者」のいないセカイなのである。
私はこの「セカイ」に世界の閉塞感の極限を見ている。あの映画を観ていると、セカイの狭さに閉じ込められて、もう何処にも行けないような、誰ももう居ないような、そんな気持ちになるのである。

このセカイ系的モノローグをトラウマとして、悪寒がしたのである。

セカイ系」の特徴としては、「言うことを聞いてくれない大人」としての「社会」を、都合よく無視して話を進める、というのがある。「君の名は。」で言えば、三葉の父親を説得して、住民の避難を止めさせないシーン。その説得のシーンがヤマ場となるはずだが、そのシーンはまるまるカットされ、どうやって大人たちを説得したのかわからない。
(「主権者のいない国」白井聡著 P97参照)

困難な「社会」も「大人」も自分達の都合の良いように無視して良いのなら、そこに乗り越えようとする足掻きはないので、もちろん「成長」しようとする意思も無い。

今回の2005年の映画、「NANA」には、向き合おうとする(あくまで自分達の)困難な「現実」や、なんとか前に進んで成長し、「大人」になろうとする「意思」は確かにあったと思う。のであるが、、、


物語は、関係が崩れていた中島美嘉ナナとその恋人の関係が、宮崎あおいナナのおかげで修復され、その事によって、より二人の友情が深まる。ということで終わるという、明らかなハッピーエンドなのであるが、私はそこでどうにも煮えきらない気持ちになるのである。
それは先程まで述べてきた、「世代間の交流」の無さや、モノローグによる「セカイ系」のイメージへの連想によるものと思われる。(そう言えば、昔の映画にモノローグってあんまりない気がする。もちろん、私の映画鑑賞の量では、とうてい断言出来ないけど)


先程参照した、白井聡の「主権者のいない国」によると、「セカイ系」が、「社会」や「大人」を無視するのには理由がある。
「してみれば、『セカイ系』とは、社会の存在の否認の表現であるが、それと同時に、社会からの疎外の痛切な表現であるとも言えよう。社会というものが、人々にとって、どうしようもなく動かしがたく、不快感のみを与えるひたすらに疎ましいものとして認識されたとき、それがあたかも存在しないかのごとくに振る舞う、その存在を否認するという心性がそこにあらわれている。もちろん、そのような振る舞いは逃避にほかならず、オタク的欲望、すなわち万能感を手放したくないという幼児的願望のなせる業である。」(p97)


中島美嘉ナナの現実の辛さや、風貌は、「社会からの疎外の痛切」さを表してはいたが、それを、「否認」する事なく、彼女はもがきながら前に進んで行く強さをもっていた。この事を考えると、「NANA」は「セカイ系」ではなく、それへと続く、前過程であり、最後の足掻きであったように思う。いわば、セカイ系の一歩手前だったのではないか。
セカイ系」は2000年頃に出てきたものらしい。このことからも、だいたいあてはまる。

2016年の「君の名は。」で、その現実を直視し、前に進んで行こうとする強さは、木っ端微塵に砕け散った。


2021.6.6
 

「昭和のエートス」VS「2017年女子高生の夢」

友人(同い年)が「あまりにも共感できなさ過ぎて、逆に面白かった」と言うので、少女漫画原作で2017年公開の映画「PとJK」を観てみた。あまりこういう女子高生向けであろう映画は観てこなかったので、大いに発見があった。ここに感想と少しの考察を述べてみたい。

まず、最初に言っておきたいのは、全体に渡る辻褄の合わなさや、現実離れ感の指摘は不粋であろう。これは2017年の育ちの良い女子高生の理想であり妄想である。観ている女の子(主に高校生以下?)にキュンキュンしてもらうのが目的の映画なので、彼女たちの望んでいるような展開になるのは仕方がない。
「えっ?こんなんで結婚するの??」とか「両親許すんかい!」とか言うのは寝ている人の夢の内容に文句を言うものである。
そんなことはどうでもいい。

私たち(別にキュンキュンしなくていい人たち)が見るべきものは、2017年の女子高生が何を理想とみなし、欲望しているのか、である。

今回の、この「夢」の中の欲望の勘所は、映画の終盤にあった。「命をかけて君を守る」と言ってヒロインと結婚した、亀梨和也演ずる警察官である男、コウタ君、26歳(高校生の時に、自分を守るために命を投げ出して死んだ、警察官である父に憧れて、同じ警察官になった)が実際に、土屋太鳳演ずるヒロインのカコちゃん、(16歳、女子高生)を救う為に身体を投げ出してナイフで腹を刺され、生死の境を彷徨うという場面にある。

この血なまぐさい場面において、「子連れ狼」や「鬼平犯科帳」といった時代劇が好きな私は、いつもの自分の領域に入ってきたとばかりに、思わず、この先の展開を妄想し始めた。(妄想せざるを得なかったと言ってもよい)
コウタ君は自分の父と同じように愛する人の為に、我が身をナイフの前に投げ出して倒れる。そして、泣きじゃくるヒロインに「大神君(ヒロインと仲の良い同級生、コウタ君にとっては恋敵)と仲良くな」と言い、そして、その場に居合わせた大神君にも「カコのことを、よろしく頼む」と最期に言って、息絶える。
大神君も「ふざけんなよ!カコちゃんはお前のことが好きなんだよ!死んだら許さねぇぞ!!」と襟首を掴みながら訴えるがもうすでに遅し。

そして月日は流れ、卒業式が終わり、ヒロインと大神君の2人は、死んだコウタ君を悼みながらも未来を見据えながら、帰り道を歩いて行く、、、エンド。

それだけの事を一瞬で妄想した私は、さぁこれからどうなるのだろうと、わくわくしながら事の成り行きを見守った。

しかし、こんな成り行きになるはずは、もちろん無い。改めて言うが、これは2017年の女子高校生の見ている夢である。

生死を彷徨ったコウタ君は病室で意識を取り戻すのである。
私はここで、ヒロインが有言実行の勇敢な夫に感謝してハッピーエンドか、と思った、が、これも違う。

私の想像とは反して、ヒロインは泣きながら「私、本当に命を投げ出して守られるなんて、重くて、そんなの耐えられない!」と言い、結婚指輪を返し、病室を出ていくのである。

私は、あまりにも自分の想像外の言葉と行動に、一瞬何が起ったのかわからなかった。夫が身体を投げ出さなければ、自分が刺されていた状況なのである。その事によって絆が深まるのではなく、逆に関係が崩壊するとは。
控えめに言って、衝撃である。
こんなの見たことない。

私はこの場面以前のユルイ鑑賞態度を改め、真剣に観始めた。ここからは私の想像の外の、まさに未知の領域である。

ヒロインは一体、何にそんなに怒っていたのか。最後まで観ての結論から言ってしまえば、彼の「父親からの呪い」に対して怒っていたのである。彼女の無意識の狙いは、その呪いの解除にあった。

その後、刺された傷も癒え、現場復帰したコウタ君はある日、ヒロインの学校で、警察官の講習会をして欲しいと招かれる。
そして、最後の質疑応答で、カコちゃんの女友達から質問をされる。
「常に命の危険のある警察官という仕事を、どうして続けることができるのですか」と。
その質問に対して、カコちゃんが見ているなか、意を決して彼は応える。
「今までは、父が僕にしてくれたように、命をかけて愛する人を守るのが警察官の仕事だと思ってきました。でも、今は違います。愛する人とずっと一緒にいるために、僕は警察官という仕事をしているのです。僕はある人に、その事に気付かされました」と。
それを聴いてヒロインは感動し、講演後の誰もいなくなった体育館で二人は抱きしめ合い、関係が修復されるのである。
これで、エンド。

これまで観て、私はようやく病室でのヒロインの怒りの意味がわかったのである。
先程も言ったように、それは「父親からの呪い」に対してなのである。

この場合、「父親からの呪い」とは、江戸時代で言えば「武士の本懐」、昭和前期で言えば「天皇陛下万歳」である。
いずれも、我が身を犠牲にしての「主君の為の死」こそ最上の誉れであり、男たちが目指すべきとされた憧れであった。
それが戦後の昭和、「主君」が「会社」や「社会」などに形を変え、男たちのエートスとして、何かの犠牲になる事は良い事である、と受け継がれてきた。
その系統にコウタ君の父がいる。彼はその男としての「義務」を立派に果たした。
コウタ君は自分にも愛する人ができ、それを父のように必死に守るが、その結果が、ヒロインからの全否定である。
ここから、二人の関係を継続するには、父から受け継いだ「昭和のエートス」を守り抜いて、ヒロインを説得するか(でも、出来ないかもしれない。「説得される」という事は彼女の夢の中には無いように見える)、「昭和のエートス」を「父親からの呪い」と言い換え、それを「受け継ぐもの」から「解除すべきもの」へと認識を変更するかのどちらかである。
彼は後者を選んだ。
男のエートスの大転換である。
「男の本懐」よりも、「二人で一緒にいる当たり前の生活」の方が大事。
言葉にするとアッサリして軽く見えるが、私はこれを良いことであると祝ぎたい。何かの犠牲になってカッコつけるよりも、二人で楽しく暮らそうよ、と。コウタ君は良い選択をしたのだと思う。新しい発見であった。

この映画は、言わば「昭和のエートス」VS「2017年女子高生の夢」(あるいは「高倉健 VS Jk」)の戦いが水面下でおこなわれていた闘争の映画で、「2017年女子高生の夢」の中の「欲望」としては、男たちの「昭和のエートス」を打ち負かして、そんなものには何にも価値はないのよと、全否定して教え諭してあげたいというのがあったのではないか(「こう言う何でも対立的に表す言い方が良くないって言ってるのよ」とカコちゃんに怒られると思う)。

私の友人も私も、この映画に共感はできなかったが、だからこそ大変に面白く観られた。
思えば私たち二人は、共に平成元年生まれであり、昭和に生き、心の所在を昭和に置く父を持っている。私は彼らに憧れて生きてきた(多分、友人も)。でも、色々な物事にガタが来てしまっているこの困難な時代においては、それだけではもうダメなのかもしれない。彼らから受け継ぐものをどう捉え直すか。それはこの映画ほど単純ではないにしても、何かの助けにはなるかもしれない。

2021.5.28



というのを書いて二週間程経ってから、この映画が実はそこまでヒットしていないというのを知った。
「2017年女子高生の夢」と題うったのだが、そもそもこの映画がそれを表していたのか、少し自信がない。