「『地味』で『普通』な物語」

現在放送中のNHKの朝ドラ「おかえりモネ」が、かなり良い。ビシビシと私の心を打ち、毎日励まされている。自分にとって、とても大切な作品になりそうなので、まだ18話しか放送されていない段階だけれども、ここに感謝の気持ちを込めながら、私の感じた事を述べてみたい。


と、言うほどに、私は勝手に盛り上がっているのであるが、どうも私の周辺の評価が芳しくない。(と言っても四人の意見しか聞いていないが。)
聞いてみると、「地味」とか「何の話なのかよくわからない」ということなのである。
私の母について言えば、朝ドラは毎回観ているらしいのだが、今回は少し観ただけで「これ、面白くない。どうせこのあとも面白くならなさそう」と感じたらしく、観るのを止めている程である。


一体、私の興奮度との、このギャップは何なのか。
しかし、少し考えてみると、私がこんなに興奮している理由と、彼らが「面白くない」と言っている理由はどうも同一のものであるようだ。
それはこの作品が、とても(ある意味で)「地味」で、「普通」だから、である。

どういうことなのか説明しよう。

舞台は2014年(震災から3年後)、主人公は清原果耶演ずる、19歳(だったっけ?)の永浦百音(ももね)、通称モネは、故郷の宮城県気仙沼市の離島、亀島を出て、少し離れた登米市林業協会に就職する(が、本当にこの仕事がやりたくて就職したわけではなく、とにかく島を出たいという理由から)。
そこで、人と交流したり、仕事を通じて自然と関わりを持ち、興味をいだいていく、というのが今の所のテーマのようなのだが、その関わり方があまりにも根本的過ぎて「地味」で、「普通」なのである。
特に重視して描かれているのが、主人公と自然との関わり(あるいは自然としっかり関わって生きている人たちとの関わり)である。
モネ以外の主要な人物の多くは大人であるが、彼らは当たり前のように自然のことに詳しい。
例えば、山の上の雲の動き方を見て、明日雨になるとか、夕方に、この位置で火を燃やすと、海と陸との温度差の関係で、これから風向きが変わるからよくない、などなど。このようなエピソードがほぼ毎話入ってくる。
モネはこのような関わりによって毎回、その事を知っている人にも、当の自然現象自体にも感心するのである。が、いかんせん、あくまで当たり前の日常生活の中での発見であるため、大げさに感心してみせたりはしない。しかし、モネにとっては、だからこそ本当に大事な繋がりであり、一つ一つ、自然に対して、(そして「世界」に対して)繋がりを回復している過程であるので(なぜ、「回復」という言葉を使っているのかはあとで説明する)、心の奥では感激していないわけはない。その微妙な心の動き、歓びといったものが清原果耶という稀有な役者によって表現されている。(彼女の素晴らしいい所は、「沈黙」や、セリフとセリフの「間」、あるいは「言い淀み」や「ためらう仕草」によって何かを表現できる、ということだと思う。こういってよければ、「黙れる」役者である。)

では、何故、モネはそこまで自然に対して関わりを持ちたがるか。逆説的だが、それはある経験によって、「自然(あるいは世界)との繋がりの断絶」があるからである。
その経験とはもちろん2011年、3月の震災のことである。
当時、彼女はまだ中学生で、その日は高校の音楽科試験を受けた合否の結果を(モネは父の影響もあり、サックス吹きで、音楽が大好きであった)、島を離れて仙台に見に行っていたのである。
結果は不合格で、付き添っていた父がモネを励まそうと、仙台のジャズ喫茶に昼食に連れて行く。早く帰らないと島で待っている吹奏楽部の仲間との最後の練習に間に合わないので、食事を終えると帰ろうとするのであるが、帰り際に始まったジャズの演奏におもわず心打たれたモネは、そのまま演奏を見続けてしまう。
そして、そこで、震災に遭う。
震災直後の故郷である亀島は、海に流れ出した石油に火が付き(彼女は、島の周りが炎に包まれているのを、仙台の高台から見る)、なかなか船が出せない状況で、仙台と亀島はわずか200メートル程しか離れていないにも関わらず、モネが島に戻れたのは数日後であった(それでも早い方かもしれない)。
島に戻ったモネは、家族の安否を確認をした後、吹奏楽の最後の練習を一緒にするはずだった仲間のもとへ急いで駆けつける。彼らは幸いみな無事で、避難所である学校の給食室で避難民の為に作業をしていた。心底安堵するモネに対し、吹奏楽部の仲間(とても仲の良い同級生4人。モネが登米市林業協会に就職した後もとても仲が良い)は、突然現れる友人に、何も言葉を発しない(発せない)まま、ただ彼女を見つめる。その視線は、モネにとって、震災の時、その場にいなかった自分を責めているように感じられたであろう(実際に、この時、それぞれがどう思ったのかは、現時点ではまだ明らかになっていない)。観ている私にとっても痛々しいと感じる視線で、まるで「今さら、何しに来たの」と言われているような気がした。もちろん、仲間たちはそんな事思ってはいない、とは思う。彼らのその後のモネとの接し方を見ても、その時は、震災のせいで彼ら自身傷ついて、茫然自失となっていたのだろうと思われる。でも、モネの目には、自分が震災のその時、練習の時間があるにもかかわらず、ジャズを聴いていて島に帰るのが遅れたために、その場所で一緒に苦しむことが出来なかった、そのせいで、仲間から拒絶されたと感じたに違いない(実際に、現時点で、音楽から距離をとっているのもそれが理由であろう)。そう思われる描写であった。もちろん誰も悪くないのだが、だからこそ、とても辛いシーンであった。


モネはこの時、「地震」という、圧倒的な暴力によって、2つの「断絶」を経験したと思われる。
まず一つは先程述べた、一緒に苦しむということを共有できなかった「仲間」との、「断絶」。
そしてもう一つは、これまで生活の一部だったはずの「自然」との「断絶」。
この時、彼女はこの圧倒的で暴力的な「自然」を憎まずにはいられなかったであろう。
しかし、彼女の家は牡蠣の養殖を生業としていて、自然は生活に欠かせないものであり、彼女自身、島の美しい海に囲まれて、そこで育って生きてきた。完全には憎めないはずだ。それに、自然が悪いわけでもないというのも知っていると思われる。
だからこそ一度は断絶した、「生活の一部」としての「自然」との繋がりを回復するべく、彼女は自然現象に興味をもつに至っている。
「生きていく」為に、これらの「自然現象」を知ることは、モネの周辺の大人たちがそうであるように、本来、(都会で生活している人以外は)生活する上で「当たり前」のことで、「普通」であり、同時に必須の事柄である。
彼女はそれを知る事で、圧倒的で暴力的な側面もある自然に対して、もう一度、親しみの感覚を抱くべく、今後も、さらに奮闘していくと思われる。
しかし、その「奮闘」ぶりはあくまで、「当たり前の生活をする」、という目的があるために、あまりエンターテイメント的に派手に演出はされずに、地味に、しかし、愛情深く描かれなくてはならない。
その事に誠実である為に、もしかすると、「面白くない」と言われるかもしれないが、「面白くない」「普通」の生活は、とてつもなく大切であり、それを壊されてしまった、あの震災の後では、なおさらそれを実感せざるを得ないのではないか。

この文章で述べてきた事は、あくまで、まだ18話までの感想ではあるが、物語の大枠は捉えられていると思う。


(そして、話しは、いきなり飛ぶが)新海誠の「君の名は。」を代表とする「セカイ系」という、セカイがものすごい狭い、困難な世界からの逃避先として、ジブンのセカイの中にしかいられないものが流行る一方で、この作品のように、2011年の大震災という、どうしようもなかったもの(原発事故は除いて)と向き合おうとし、自然とも他人とも何とか関わっていこうとする物語があることに、とても勇気づけられ、明るい気持ちになっている。
さらに個人的なことを言うと、このように自分の心に思うことを、他人に伝えるべく文章を書き始めたのも、実はこの「おかえりモネ」の影響がある。
感謝の気持ちもあり、この「地味」な作品を一人でも多くの人に見てもらいたい、という気持ちで書いた。


2021.6.9