「子育てEVANGELION説 後編」

前編では、作品の冒頭から既に碇ゲンドウの子育てがスタートしていた事を、何とか述べてみた。が、大変なのはこれからだ。
こんなややこしい物語の感想を、果たして自分如きが書ききれるのか(書いていいのか)。
「こんなのできっこないよ!」と言いたくなるが、それでも書ききれると信じて、進めてみよう。



「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」において、どうしても涙を抑えることが出来なかった場面が終盤に2つあった。
まずは、一つ目。
シンジ君がミサトさんに「ミサトさんの責任を半分、僕が背負うよ」と言う場面である。

これまでのシンジ君は、「僕ばっかエヴァに乗って、ミサトさん達大人は何もしないじゃないですか!」とか、「僕がエヴァに乗るとみんな不幸になるんだ。だから、もう乗りたくない」といった感じで、物事に関して概ね受動的であった。(でも、シンジ君はとても頑張っていたとは思う。何度も何度もひどい目に遭っていたのに、その都度、受動的ではあるにせよ、立ち上がって戦った。)
新劇場版:破においても、アスカが使徒に乗っ取られた時、殺す事も助ける事も自分では何も決めず、この状況に対して積極的に関わることをせずに、責任を取ろうとはしなかった。(「シン・エヴァ」で彼はそれに気付く)

ところが、この場面は、シンジ君が能動的に自ら「責任」を取ろうとする場面である。そして、さらに言えば、本来、自分の責任ではないはずの「他人の責任」を、彼が「自らの責任」として背負う場面である。

ミサトは大人であり、組織のトップである。そうであるならば、この状況を招いたのは、(もちろん全てではないが、)彼女である、と言っていい。故に彼女には責任がある。
シンジ君は子供であり、この状況がどうなっているのかも、コントロールすることもできない。ニャサードインパクトは彼が原因で起きたが、彼の意図ではない。あくまで誘導されただけである。故に彼に責任はない、と言っていい。
そもそも、この状況はシンジ君が物心つく前(あるいは産まれる前)から計画され、始まっていたものであるから、本来、彼に責任は全くない。
これまでのシンジ君なら、部屋の隅でうずくまって、心を閉ざして何もしないか、ミサトさんに「僕にはできないよ!」「エヴァに乗ったら僕も世界も傷つくだけだ」と言うか、ミサトさんに怒られて、何とかエヴァに乗るとかしたかもしれない。
しかし、彼は「他人の責任」を、「産まれる前から始まっていた状況」を、「僕が負います」と宣言して、自らの意思でエヴァに乗ったのである。ここで彼は、初めて「大人」になった。

この事から言えるのは、「大人」とは、「自らがが招いた状況」に責任を取る、という事よりも(それは当然であるので)、寧ろ、「他人が招いた状況」、「産まれる前から既に始まっていた状況」、つまり、本来は「自分の責任ではない状況」に対して、「私の責任です」と宣言して、痛みを引き受ける人間の事ではないか、と思われる。
リアルタイムで観ていた人は、26年間で初めて、シンジ君が「大人」の言動をするのを観たはずだ。その感慨、如何程のものであっただろうか。5年程の付き合いの私ですら、込み上げてくるものがあった。



では、この本来、「自分の責任ではない」状況を招いた張本人とは一体、誰なのか。
ここでようやく、彼の父、碇ゲンドウが出てくる。碇ゲンドウこそが、この状況をコントロールしている、「全責任者」である。
「大人」になったシンジ君は、「父のやった事の落とし前をつける」と宣言し、この状況を終わらせるべく、その「原因」である父に闘いを挑む。

この一連の闘いの後になされた、父と子のやり取りの場面が、もう一つの涙が抑えられなかった場面である。

ミサトさんが命を賭けて届けてくれた槍を、しっかり受け取ったシンジ君の姿を見て、父、碇ゲンドウが言うのである。
「他人の死を悼みながらも、その想いを受け取れるとは。シンジ、大人になったな」
素晴らしいセリフだと思う。(もう、私はここで、もう、、、私は、、)


しかし、ゲンドウはまさに、その事が出来なかったが故に、死んだ妻にもう一度会うために、わざわざこんな果てしの無い計画を人間を棄ててまでも行ってきたのである。
なので、観ている側は「お前が偉そうに言う事かい!どっちが子供だよ!」とツッコミを入れたくなった人もいたかもしれない(いないかもしれない)。

いずれにしても、「エヴァンゲリオン」という作品が完結する上で、この父と子のやり取り、父が我が子を「大人」と認めるシーンに多くの人が感激したに違いない。もの凄く良いシーンだったと思う。

と、まるでそろそろこの文章のまとめに入ったかのように書いたが、私の思考はここから暴走する。
私が本当に言いたかったのは以下に書く事である。
怒らないで聞いて欲しい。
それは、
実は、「父、碇ゲンドウは息子、碇シンジに『シンジ、大人になったな』と言いたくて仕方なかった」説である。
どういうことか。
つまり、ゲンドウは初めから(あるいは、どこかの地点で)、このセリフを言うためにあらゆる犠牲を払って「子育て」を行なってきたのではないか、とういことである。
私の説を(無理やり)通すならば、ゴルゴダオブジェクトでのゲンドウの告白は、嘘ではないが、本当の事でもない。彼は人類補完計画も、それによって妻に再び会うこと(のみ)も、本当は求めてはいない。電車の中でシンジ君に話しを聴いてもらって救われる前に、彼はもう既に救われていたはずである。
彼の電車内での告白は、シンジ君を「大人」にする一連の「儀式」の内の一つであったのではないか。

この物語においては、「父」=「世界」または「ルール」であったと言って良いと思う(少なくとも「神」になった後半では特に)。

シンジ君にとっては、「世界」の「ルール」は全く理解不能であり、それを知っており、無理矢理押し付けてくる「父」そのものも恐怖の対象であった。
でも、「大人」になったシンジ君が見た父の告白は、「自分と同じ、弱い姿」であった。「自分の弱さを、その弱さ故に認められず」、このような「世界」を造った、と言うのである。あまりにも「絶対的」で、恐怖の対象であった「世界」は「自分と同じ、弱い」が故に造られたことを知る。
ならば、その「世界」は「絶対的」なもので「揺るがす事ができないもの」では、決してない。
その「弱さ」を認める「強さ」があれば、「恐怖心」によって創る閉鎖された「世界」ではなく、
「能動的」に関われる、今とは異なった「世界」が創れるはずだ。
父はこの「世界」との関わり方を、息子に教える為にあえて「演技」をしたのではないか。
私にはそう思えてならないのである。
ゲンドウが、シンジ君をゴルゴダオブジェクトに誘導したように見えたし、「遠回りだ」と言いながらも「これも私に必要な儀式だ」と反対の事も言っていた。人類補完計画の遂行、そして妻に会うだけならば、この父と子のやり取りは必要のない儀式なのではないか。
ならば、ゲンドウの本当の目的は人類補完計画でも、妻との再会でもない。
彼が本当に望んでいたのは、「息子を大人にする」事、そして、親がやった事の責任を取ろうとする息子に代わって、父と母がそろって責任を果たす事(その瞬間に妻と再会できる事を望んでいた)。この事にあったのではないか。


物語の最後、姿も声も大人になったシンジ君は、
我々、観客側の世界の実際に存在する駅に居る。
甘い言葉でおちょくってきたマリに対して、「君こそ相変わらず可愛いよ」と初めて能動的に言い返す。そして、自ら彼女の手を引っ張って、駅から外へ出てゆく。
この現実の駅は「エヴァンゲリオン」というアニメ世界の電車から降りて来た駅であるはずだ(シンジ君、ゲンドウ、渚カヲルが乗っていた、あの電車から)。そこから、我々も一緒に降りて、彼らと共に今、我々が生きている「現実世界」に駆け出した。
このアニメを観た我々は、碇ゲンドウから(あるいは庵野秀明から)教わったように、我々が今居る「現実世界」が「絶対的に揺るがない世界」ではないというのを知っている(TVアニメ版の最終回でも言っていたように)。
ならば、能動的に「世界」と関わり、よりよい「世界」を創造しようじゃないか。ネオンジェネシス、「現実世界」。さぁ、行こう!






※セリフはうろ覚えなので、正確な文言ではありません。
また、現時点での自分が、どう感じたのかを、とにかく書いてみたかった文章なので、もしかすると整合性がなかったりするかもしれませんが、許してくださいね!
この作品はまたこれからも繰り返し観て、その都度感想が異なって良い作品だと思うので。

最後まで読んでくれてありがとうございます。


                2021/06/27