「シン・仮面ライダーを観た①(自称弟子として)」

「シン・仮面ライダー」を観た。公開初日舞台挨拶生中継の日に観た。

観終わって、「あぁ、また、素晴らしい作品が世の中に一つ増えた。(登場人物たちの感情の推移が少し分かりづらかったのはあるけれど、それにしても、)こりゃ、みんな日本中が大騒ぎするぞ」と思った。素直に感動した。胸が熱くなった。

 

2日後の日曜日の休日、私は居ても立っても居られず、2回目を観た。

1回目では、少し判然としなかった登場人物の感情の推移が、よく見ると、わかりにくいけれど確かに描かれていることに胸を打たれた。「あぁ、本郷とルリ子の信頼関係の構築は確かにあったなぁ」と再び胸が熱くなった。本当に身体の中心から沸き立つものを感じた。私も本郷のように葛藤を抱えながらも良い方向に願い続け、格好良く生きたい。そして一文字のようにそれを受け継ぎたいと思った。

 

 

しかし、翌日、たまたまあがっていたツイッターでの感想をいくつか読んだらびっくりした。

「ストーリー展開が雑なうえに、登場人物の心理描写がよくわからない。非人間的」「役者は豪華なのに、変な演技をさせている」「特撮アクションも別に大した事はなかった」等々、どれも、総じて「なんか、期待ほどじゃなかった。駄作ではないにしても、そこまでおもしろくはない」という感想だった。

私は意表を突かれた気持ちで、それ以上感想を読むのを一旦止めた。

(後日、感想を見直したら、実際は賛否、半々ぐらいだった。)

 

そして、考え込んだ。

というのは、彼らの感想に「なるほど」と思うこともあったからだ。確かに一理あるなと思ってしまった。むしろ当たっている気がした。しかし、だからといって私の感想はどうも全く変化しない。なにも意地になってるわけでも無いと思う。まだ身体の熱が確かにあるのだ。なんだか、変な気持ちだ。

 

5日間考えて、金曜日になった。

そして、ようやくこう思った。

「彼らの感想は間違っていない。彼らの方があるいは正しいし、客観的だ」嫌味なくそう思った。

しかし、こうも思った。

「私の「庵野作品」に対する姿勢はもしかすると、特殊なのかもしれない。良く言えば「弟子が師匠に向ける眼差し」、悪く言えば、「何でも良いように勝手に思い込む関係妄想的」ではないか」と。

 

本編と無関係になるが、少し説明させて下さい。

 

私の大変尊敬する、武道家で思想家の内田樹先生によると、

弟子にとって、師匠とは「そこに全てを見出だせる、完全記号」として機能する存在の事である。

つまり、すごくざっくばらんに言うと(言い過ぎると)、「自分より、師匠の方が正しい」ということである。

例え、自分と意見が違う事や疑問点があっても、「そんな事、師匠が気が付かないはずがないじゃないか。師匠は自分に何かを教える為に『あえて』そうしているのだ。あるいはそもそも、自分は何か大事なものを見落としているのかもしれない」と、「勝手に」思うことである。(師匠にそんなつもりがなくても)

 

 

「なんか、カルト宗教っぽくてコワい」

と思われた方もいたと思う。

 

違います。

カルト宗教は自分が洗脳されている事に気が付かないが、

こう言ってよければ、師弟関係は「あえて」自ら進んで洗脳されるのである。(ものすごく変な言い方だけれども)

 

だって、師匠だって人間なんだから、適当な事も言うだろうし、時には間違った事もするだろう。

そんな事私にだってわかる。

「全てが正しい人間」なんているわけないじゃないですか!

 

しかし、「師匠の言動は完全記号である」という「物語」を、「フィクション」を、自らに引き受けることによって得られる境地も確かにある。

 

本当に「物凄い思考」とは、自分が思考できる範囲外の思考の事である。今の自分になんかわかるはずがない。

その思考を追体験するには、一旦、自分を、自分の思考法の枠組みを捨てて、その思考に身を投じなければならない。

 

要するにそれを「成長」というのである。

 

 

話がやっと戻ってきたが、私にとって「庵野作品」とはそういう「物凄い思考」なのだ。

庵野作品」を観る時には、できるだけ自分の思考は捨て去り、物語の渦の中に自分をねじこむ。(というか、勝手にそうなる)

客観的評価なんて、できない。

 

疑問に思ったり、意味が分からない所があると、自分が未熟だからだと思い、何回も見直したり、実人生に於いて経験が足りないからだと、もっとしっかり生きようと思ったりする。

そういう意味で言えば、何回観ても楽しめるし、なんなら映画をみていない時間の実人生のハリもでる。(ある意味、コスパが良い。)

作品を、お客を楽しませるだけの「サービス」として消費するよりも、はるかに愉悦を享受できる。

 

だけど、もちろん、どんな作品にでもそういう姿勢で観られるわけではない。(「コマンドー」でそんな事できない。大好きだけれど)

きっと相性もある。私にとっては「庵野作品」だからできるのだ。(というか、「庵野作品」はそういうふうにしか見れない気がする。「謎」が多いから、こちら側が能動的に解釈しなければならない)

庵野秀明」は私にとっての数少ない師匠である。

 

師匠の作品を、(自称)弟子がどう解釈したのかは「シン・仮面ライダーを観た②」で書こうと思う。

 

 

           2023/03/24㈮